まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>流辺硫短編小説集④「相続」
6/10(2011.4.30更新)



(5)


 もう帰んのかよ、という先輩の威圧的な声を受け流して、京行は居酒屋をあとにし、帰りの電車に乗り込んだ。

 昼に連絡を取ったときに市本は九時半頃に伺うと言っていたので、少し余裕を見て家に帰り着くつもりだった。

 キオスクで買ったガムを二粒口に放り込んだ。帰るまでに少しでも酒の匂いを飛ばしておきたかったからだ。

 中央区役所のあと、京行は地下鉄を乗り継いで先輩の大野が経営する登山洋品店に向った。二時から七時まで、アルバイトを頼まれていたからだ。毎年この時期は夏休みのセールを控えて店が忙しくなる。通常の業務と店内の改装、その二つをほとんど平行してやっていくので、勝手知ったる京行に声が掛かるのが年中行事となっているのだ。

 いつもより早く六時半に店を閉めたあとも、三十分程二人でちょこちょこと店のレイアウトをいじっていたのだが、大野が耐えかねたように、もうやめて呑みに行こうと訴え、近所の定食屋を兼ねている居酒屋に向ったのだった。

 吉祥寺と三鷹の中間で、急に電車が歩くようなスピードに落ちた。

 京行は読んでいた本から視線を上げて、外を見た。

 ――またか……。

 JR中央線は何かというとよく止まり、遅れる。

 人身事故に架線や車両などの故障。その二つが、何といってもアクシデントの両巨頭だが、その他にも台風、雪など天候に関するものから、青梅線や五日市線、高尾から先の中央本線など乗り入れている線の影響と、ダイヤの乱れる出来事には事欠かない。三鷹から東京方面に向かって総武線や地下鉄東西線が併走するが、そちらの事故や故障の影響を受けてしまうことすらある。ダイヤの乱れが数日続き、今日もかよ、などという声がホームで飛び交っていることも珍しくない。

 通勤で利用している人たちとは比較にならないが、この路線をちょくちょく使っているだけあって、止まった時にどの程度の遅れになるか、なんとなくカンが利く。ガッチリと何十分間も止まってしまって動かなくなってしまうようなときは、車内の放送や駅の雰囲気が、何か浮き足立って感じられるのだ。本から顔を上げて気配を探ってみたのだが、どうも今回はたいしたことがなさそうな雰囲気だった。止まっている数分間、車内放送すら入らない。

 案の定、電車はすぐに動き出し、徐々にスピードが上がっていった。三鷹駅でも不必要に長く停まることなく出発した。

 京行はホッとした。もし市本の来る時間に遅れでもしたら、母親になんと言われるか分かったもんじゃない。

 酒の場ではいつも最後まで居座る大野は、京行が席を立つときにいつも名残惜しそうに、帰っちゃうのかよぉと一声掛けるのだが、今日のそれには少し怒気が含まれていた。

 飲みだして一時間ほどで中座したのではそれもやむを得ないが、しかしその他にも彼の怒気には理由があった。

「今年もそろそろ行くんだろ」

「えェ、一週間後に行く予定です」

 毎年、大野の店での改装が終ると、京行は東北にある山小屋に旅立つ。そこでひと夏を働いて過ごすのだ。大学の頃からだから、かれこれ十年になる。

「滝田さんとこの山小屋、断れないかなぁ」

「えっ」

 突然の大野の言葉に、京行は驚いて思わず顔をしかめた。

「そんな、無理ですよ今さら。もう人数分として当てにされてんですから」

 一気にビールをジョッキ半分程飲み干し、あァ、と大野は深く大きいため息をついた。

 大学の山岳部の上級生は、寡黙か口うるさいかの、どちらか極端だった。大野はうるさがたで、その中でも飛び抜けていた。

 初めはけむたく感じていた京行だったが、すぐにその考えが変わった。とにかく、よく動くのだ。大野は人の三倍動く。周囲からもそう評価され、一目置かれていることを知った。他のうるさがたと違い、同学年にもかまわず口を出し反感も買っていただけに、周囲のその評は京行の心に残った。

 不思議なことに、その大野は京行に目をかけ、よく自分の傍に置いた。

 体の大きい大野は山行では一番荷を担ぎ、酒席では最も飲んだ。しかも、飲んだ次の日もケロリとしていた。いわゆる豪傑だった。体力が第一の山男にとって、大野のような男は尊敬に値する。次第に京行は大野を尊敬するようになり、兄のように慕った。

「人数分か……。じゃあ今年はしょうがないとしても、山小屋は今年一杯で来年以降は来られないって言ってきてくれないか」

 京行は言葉が返せず、大野の顔を見つめた。

「ムリだろうなぁ。滝田さん、タカのこと息子のように思ってるもんなぁ……。この前も電話があって、言ってたよ。毎年お前に会える夏が楽しみだって」

 大野はもう半分を飲み干し、カウンターに野太い声でお替りを告げた。

「あの厳しい滝田さんがさ、行って三年目のお前にアルバイト長を命じたんだからな。よっぽど働きぶりや人柄が気に入られたんだよ。お前が行かないなんて言ったらすぐ俺のせいだって気付いて、山から下りてきてぶん殴られちゃうだろうなぁ」

 大野からは再三、店を共同経営していこうと誘われていた。今夏のアルバイト最終日になる今日、おそらくこの話になるだろうとは、京行は覚悟していた。

「でも、今日は今までで俺の誘いに一番前向きな表情してるな。こいつは嬉しいや」

 大野に図星を言い当てられ、京行は少しうろたえた。うろたえついでに時計を見ると、八時を回っていた。

「あっ、すみません。今日ちょっと客が来るので、帰んなくちゃ」

 相手が大事な話をしているときに実に間が悪いが、市本を待たせる訳にはいかないので京行は大野に何度も詫びながら席を立った。名残惜しげな一声は大事な話の腰を折られて怒気が含まれていた。バタンと京行が出て行った扉に向って大野は深くため息をつき、馴染みの店長に、

「引く手あまたのタカを引っ張り込めりゃ、店はうまくいったも同然なんだけどなぁ」
と独り言のように低く言い、空のジョッキを差し出した。