まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>流辺硫短編小説集④「相続」
5/10(2011.4.20更新)



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 相続登記の書類の中で一番集めるのが難しいのが、被相続人の戸籍関係で、どうして難しいのかと言うと、亡くなった記載のある戸籍、つまり今現在のものから、一つ一つ遡って、出生に近い年齢まで辿り着かなければならないからだ。これは法定相続人が誰かということを正確に把握するためのもので、万が一隠し子や半血兄弟などがいた場合でも、戸籍や除籍を追っていけば分かるからだ。だから戸籍の遡りは、出生まで辿り着かなくても、子供を作る可能性のある年齢、大体十二、三歳くらいまででよい。

 とはいえ平均寿命でも分かるとおり、被相続人となるのは、七十年、八十年と生きてきた者が多数なので、そこまで遡るまでには戸籍もかなりの通数になってしまうのが一般的だ。たとえばお年寄りが亡くなったとして、直近のものから遡っていくと、自分の結婚後の籍、結婚前の籍、戸主制度の頃の長兄の籍、親の籍、果ては祖父の籍、曾祖父の籍と遡ることになる。そうやって、その七十年なり八十年なり分の戸籍が全て揃うことになるのだ。

 戸籍や除籍には、筆頭者や戸主だけでなく、それぞれ戸籍に載っている全員の欄に、どの籍から移ったかという内容の一文が記載されていて、その戸籍が閉じられる前に婚姻や養子縁組などで籍から出ていった者は、どの籍に移っていったという事項が記載されている。それらを読み取り、遡っていくのだ。

 戸籍及び除籍は、その籍がある、あるいはあった役所でしか取れないので、基本的にはその役所に足を運ばなければならない。もちろん土、日は閉庁しているので、ウィークデーの日中に、ということになってしまう。

 郵送で取り寄せるという手もあるにはあるが、実際にはかなり難しい。戸籍、除籍の申請用紙を作製するか取り寄せるかし、返信用封筒と代金分の郵便小為替と共に郵送する。これだけでもかなり面倒なのだが、最近はプライバシーの問題でなかなか役所が発行してくれないので、身分証明書の類も同封する。そして本人以外の戸籍を取る場合には、本人との関係が分かる、戸籍謄本などの書類を付けなくてはならない。ここまでしても配偶者や子どもの戸籍ならともかく、兄弟やいとこなどちょっと複雑な法定相続人になると出してもらえないときがある。もっとも、安直な申請書で戸籍がすぐに手に入るなどということになったらそれこそ大変なことなので、厳格な審査は致し方ないところでもある。

 父親の戸籍を集めるのは大変だと市本に聞かされていたものの、それにしても半日動いてたった紙っぺら二枚とは、と京行はため息をついた。しかも明日、さらに今日取った分の続きを遡らなければならないのだ。

 父親の戸籍関係は、まず昭島市役所で戸籍を一通取った。戸籍の方は徐々にコンピュータ化されて横書きのA4用紙になっていっているが、平成十四年現在、昭島市役所ではまだコンピュータ化されていなかった。なので戸籍は従前の縦書きのものだ。もしもコンピュータ化されればそれまでの戸籍は閉じられることになり、閉じられた従前の戸籍は改製原戸籍というものになる。改製原戸籍とは、何かの事情、たとえば戸主制度の廃止などの法改正、あるいはコンピュータ化などでそれまでの戸籍が作り変えられたときに、閉じられてしまった戸籍のことだ。戸籍に入っている全員が抜けて閉じられたものは、除籍謄本となる。

 この昭島の戸籍は、昭和三十二年に京行の父の克晴が結婚したため新規に編製されたものだが、そのときの妻は母の和子ではない。
戸籍の一番目に載っている名前は勿論筆頭者の克晴だが、次に載っているのは順子という女性で、克晴の最初の妻だった。

 その欄には大きくバッテンがしてある。結婚二年後に病死してしまったからだ。二人の間に子供はなかった。

 次に載っているのは和子で、昭和四十年に和子の父親の籍から、婚姻により入籍している。

 長女の奈津美が昭和四十一年、結婚の翌年に生まれ、その六年後、長男の京行が生まれた。なので和子の欄の次に奈津美、その次に京行と、順に載っている。

 克晴の欄にも当然のことながらバッテンがしてある。亡くなっている者だからだ。克晴の欄は、まずどこそこで出生した旨が記載してあり、次の行にどこそこの籍から移ってきたと記載されている。克晴の前籍は、文京区の兄、善一の籍だった。それで戸籍を遡るため、京行は文京区役所に足を運んだのだ。そして文京区で、善一の除籍謄本を取った。

 今でこそ戸籍は家族単位だが、昭和三十年代前半くらいまでの戸籍は戸主制度で、ひとつの戸籍に戸主を中心として、親、妻、子供は当然のこと、兄弟姉妹、その配偶者、その子供と、関係する者の名が片端から連なっているのが普通だった。戸主は一家の長というよりも、一族の長という感じだった。遡る善一の戸籍も、年代から考えて戸主制度のものだろうということで、市本は京行に、分厚い戸籍が出てくるだろうと伝えていたのだが、これは運悪くはずれてしまった。

 克晴の兄弟は皆生まれてすぐに亡くなってしまい、善一という兄が一人いるだけだった。両親も亡くなり、そのうえ戸主の善一には子供がいなかった。だから文京区のその除籍謄本には善一、善一の妻、そして克晴しか載っていなかったのだ。

 さて、その善一の戸籍だが、戸主の欄の五行目に、昭和二十六年、中央区より転籍と書かれてあった。

 本籍地は住んでいる所と関係ないので必要がなければ一生動かさなくて構わないのだが、移したってもちろん構わない。中には住所と合わせなければいけないと思っている者もいて、引っ越す度に本籍地を変えてしまう。そういう人は相続登記のとき、変えていった籍をいちいち遡らなくてはならないので通常よりかなり面倒なことになってしまうのだ。もっともそれは当人が死んだあとの話だから当人は苦労しないのだが。

 善一の戸籍に転籍の記載がある以上、遡って中央区役所に転籍前の戸籍を取りに行かなければならない。何しろ文京区の戸籍では、昭和二十六年以降の証明にしかならないのだ。
 亡き父の兄善一がどういった理由で籍を移したのか今となっては知る由もないが、ともかく京行は市本の指示で中央区に向った。

 そこでも取れたのは同じ三人だけが載っている一枚の紙のみだった。そして戸主の欄には四行目に再び、昭和二十三年、江東区より転籍と書かれていた。

「うひゃあ、また転籍ですかぁ」

 中央区の戸籍を読み上げたときの市本のそのひっくり返った声が、京行はしばらく耳から離れなかった。思い出す度に笑ってしまいそうになり、京行は地下鉄の車内でひたすら俯き、文庫本に意識を集中させようとしていた。