まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>流辺硫短編小説集④「相続」
4/10(2011.4.10更新)



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「うちの役所で出せるのはこの戸籍謄本一通だけになります」

 新宿からJR総武線で飯田橋へ、そして地下鉄の東西線に乗り換えて九段下で降り、数分歩いて千代田区役所に来てみると、出された書類はB4用紙のたった一枚だけというもので、ホッチキス止めすらされていなかった。


「相続で集めなければならない書類は、ケースによっては他にさまざまな書類が出てきますが、基本的には五つです。その五つが揃えば、ほとんどの相続登記は可能です。まず①被相続人、つまり亡くなった方の、『戸籍謄本』及び『除籍謄本』。大体十三歳くらいから、亡くなるまでのものです。次に②被相続人の亡くなった時の『住民票』。そして法定相続人全員の③『戸籍謄本』と④『住民票』。あとは登記する不動産のその年度の評価額が書いてある⑤『評価証明書』。簡単に言うと、その五つです」


 昨夜聞いた市本の説明を思い出し、もらった必要書類一覧の用紙を見てみた。

 千代田区役所では、父親の結婚前の戸籍を取ることになっていた。市本からは、もしかしたら何通か職員が出してくれ、しかも一通一通がかなり厚いものかもしれないと言われていたので、その一枚だけの紙に拍子抜けし、そのうえ不安になってしまったのだ。

 昭島市役所の時と同じ説明をしたつもりだったが、もしかしたらここではうまく伝わらなかったのかもしれない。京行はとりあえず役所の外へ出て、市本の携帯電話に連絡を入れてみた。

「もしもし」

 市本はどうやら電車の中らしく、トーンを落とした声が返ってきた。

「今、まずいですか」

「えっと、そうですね。二、三分待って頂けませんか。すぐ掛け直します」

 京行が電話を切り、文庫本を取り出し数行読んだところで、市本から折り返しの電話が掛かってきた。

「たった一通で、しかも一枚きりなんですよ」

 京行が伝えると、今度はいつもの快活な声で、

「ちょっと戸主の欄、克晴さんのお兄さんの善一さんですよね。何行かあると思うのですが、そこを読んでもらえますか」
と市本が言ってきた。

 手書きのぐちゃぐちゃした字なので読みづらかったがなんとか読み終え、しばらく電話の向こうが無言になったが、

「問題ないです。文京区役所ではその一枚だけでいいです。ところで京行さん、今日はたしか一時半まで予定が取れるって言われていましたよね」

「はい」

「じゃあすみませんが、今から中央区役所に向かってもらえませんか。一時くらいまでには済みますので」

「大丈夫ですけど、どこにあるんですか」

「今いる九段下から今度は半蔵門線に乗って、二つ目の永田町で有楽町線に乗り換えて新木場方面に向って、新富町という駅で降りて下さい。その駅で地上に出ると、中央区役所です」

 京行がメモを取りやすいようにゆっくりと話していった市本だったが、言葉には澱みがなかった。

 この人は都内の交通網が全て頭の中に入っているのかと、京行はペンを動かしながら、舌を巻いた。

 半蔵門線が二駅、有楽町線が四駅。新富町にはすぐに着いた。

 駅と駅の距離が短く、しかも朝夕の通勤時間帯でもないのにほぼ五分間隔で走っている。だからあっという間に着いてしまったのだ。大糸線、只見線など超の付くローカル線を頻繁に利用している京行にとっては、目の回るような感覚だった。

 電車での移動中は本を読んでいることが多い京行だったが、地下鉄の中では文庫本は開かなかった。どうせ開いてもすぐに閉じなければならないのだ。普段京行が乗る電車だと、へたをしたら車内で一冊読み終えてしまうこともあるが、ここでは一ページも進みそうになかった。

 といって、地下鉄では車窓もまったく見応えがなく、京行はぼんやりと昨夜の市本の説明を思い出していた。

「まず①被相続人の戸籍、除籍は後回しにしまして、②被相続人の『住民票』……」

 市本は昨日の夕方に京行が取ってきた書類をテーブルに並べ、向かい合う和子と京行に説明を続けた。

「②亡くなられた方、つまりお父さんの住民票は、この、『改製前の住民票』です。京行さんが職員にもう一通余分にかかりますと言われたものですね。住民票は世帯主の方が亡くなってしばらくすると、新しい世帯主の住民票に改製されてしまいます。そこでは亡くなった方の記載は削除されているので、亡くなった方の分は、この改製される前のものになるのです」

 そう言って市本は、『改製前の住民票』を横にどけた。

「そして村中さん家のケースですと、お母様と京行さん、あとはお姉様の奈津美さんが法定相続人になりますので、そのお三方の③戸籍、④住民票が必要です。これは同じ書類に載っていれば一人一つずつ取る必要はありません。現在の住民票に、京行さんとお母様の和子さんが一緒に載っているので、お二人の住所証明書はこの一枚で足ります。戸籍は住民票と違って、まだ克晴様が筆頭者になっていますが、これは問題ないです。この戸籍に和子さんと京行さんが載っているので、これも足ります。
お姉様の分は婚姻後に克晴さまの戸籍から出ておりますので、明日、新宿区役所でお願いします」

 京行は、分かりましたか、と言うように、二人の顔を数秒間見てから、再び書類に目を落とした。

「⑤評価証明書は二十三区だと都税事務所、市町村では役所の資産税課で取れます。ですので、そのうちもう一度昭島市役所に行っていただくことになります。本当はさっき一緒に取れれば手間がなかったのですが、とにかく時間がなかったので、戸籍の方を優先させました。

 ここまではあまり時間が掛からずに集められます。一番厄介なのが①被相続人の戸籍、除籍です。何しろこれは、今現在のものだけではなくて、ずっと昔まで遡らないとならないので、下手をすると揃えるまでに数ヶ月掛かることもあるのです。まず昭島市役所からスタートしなくては次を取ることができないので、それで急いでもらったのです」

 新富町駅で『中央区役所』と書かれている出口を上がってゆくと、目の前が区役所だった。一面ビル郡の中で、公共の施設らしく古臭く、重々しくかまえていた。京行はなんとなく、「昭和」という印象を受けた。

 住民課で、今まで取った戸籍を見せながら同じ説明をする。待つこと数分、文京区役所と同じようなB4一枚のものが出てきた。

 市本に電話を入れると、京行の午後の予定を気にし、今日はとりあえずここまでにし、また今晩、明日の打ち合わせのために伺うので、そのときに詳しく見せて貰うと言ってきた。

 京行は、甘えついでだと思い、これから行く場所までの行き方を尋ね、すぐ返ってきた答えに、先程と同じように感心しながら電話を切った。