まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>流辺硫短編小説集④「相続」
3/10(2011.3.30更新)



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 西武拝島線のホームから見るJR青梅線のホームは、もう九時に近いというのにかなりの乗客で埋まっていた。昨日から一転、今朝はこれぞ梅雨の真っ只中とでもいうように、しとしと雨が降って一面霧がかかったようになっている。おそらく車内に持ち込まれているだろう傘は、よけるのが大変にちがいない。

 混みあった電車が大の苦手な京行は、あんな電車に乗らなくてホッとしたが、乗っている人たちにはすまないとも思った。あの車内には市本のような、社会の中で頑張っている奴がたくさん押し込まれているのだ。

 しかも中央線を使わずに西武線で都内に出た方が楽だと教えてくれたのは、他ならぬ市本なのだ。今日はこれから新宿に向かわなければならないのだが、中神から立川に出て中央線で行くより、拝島まで二つ戻って西武線で行った方が楽だと教えられた。市本が言うには、中央線はラッシュの時間帯がすぎても相当な混みようだし、新宿区役所はJRよりも西武の方が近い、ということなのだ。

 昨夜、八時過ぎに再び訪れた市本は、遅いのでと遠慮して昼間のようには上がってこず、玄関で昭島市役所分の書類をチェックしだした。それを和子がなかば強引に応接間に通し、市本は恐縮しながらも今度は椅子に座ってじっくりと書類を見始めたのだった。

 横で見つめる京行と母親をまったく無視して書類チェックできるはずもなく、時おり説明を入れながらチェックをしているうち、結局市本は成り行き上、村中家のシロウト二人に相続登記の説明を始めてしまうことになった。市本が家をあとにしたのは、来て三十分後ということになってしまったのだった。

「たしか明日は午前中手伝っていただけるんですよね」

 説明のあと、翌日の予定の話になり、京行はさっき市本が昭島市役所の書類を見ながら書いていたメモを渡された。

 その京行が渡されたメモは、昼間渡されたメモよりも大分文字が乱れていた。暑い最中動き回って疲れているのだろうな、と京行は感じた。そんな相手に、午前中だけなどと制限するのはなんともイヤなものだなぁ、と思ったが、明日の午後はかなり前から入っていた予定なので、仕方がなかった。

「この行程なら午前中に間違いなく終わりますので」

 市本はまた明日の夜伺うと言うと、自転車にまたがり、夜の闇に消えて行った。

 小平まで各駅停車に乗り、そこから西武新宿行きの急行に乗り換えた。そこまではそれほどの混みようではなかったのだが、さすがに本線の急行はかなりの混み具合だった。しかし中央線に比べれば、とても混みあっているという状況ではないのだ。

 終点まで乗る京行はさらに混み合うことを想定して、ドア付近ではなく奥の方へ入り込み、ディパックを網棚に置くと文庫本を開いた。

 元々、車内がガラガラにすいていない限り座らないたちなのだ。立ち続けている方が体を鍛えられるし、人込みの嫌いな京行にとっては隣と密着して窮屈な思いをして座るより、よっぽど楽でもあった。

 花小金井、田無と、駅に停まるごとに密集の度合いが高くなる。冷房は効いているが足元だけがやたらと冷され、上半身は湿気と人いきれで汗ばむ程だった。数々の山を登って苛酷な自然環境に慣れている京行にとって暑さ寒さは苦にならないのだが、それが人工的なものであれば話は別だった。不自然な気温に加え、窓のガラスが曇って外の見えない閉塞感に包まれた車内は、不快極まりないものだった。

「混み合うのが苦手なら」

 昨夜、JR中央線を避けて西武新宿線回りの方が良いとアドバイスしてくれた市本が、さらに言葉を付け加えた。

「西武新宿線の一番後ろは避けた方がいいですよ」

 通常、電車は真ん中を頂点に、前後に向かうにつれすいてくるのが普通だが、中には例外もある。有名なところでは通勤ラッシュで名高い埼京線で、改札への階段がホームの端っこにあるという駅が多いため、中央付近よりも両端の方が混み合っているのだ。

 西武新宿線も、降車客の多い高田馬場駅が最後部に階段があるため、上り電車の後部が混雑するのだ。

 急行なので、途中、いくつもの駅を通り過ぎてゆく。京行がよく乗るのは地元の青梅線と各地のローカル線なので、駅を飛ばす感覚になれていない。こんなにスピードを出したまま、人の立つホームを通過して大丈夫なのかと思ってしまう。

 高田馬場でほとんどの人が降りる。がらがらになったので座席に座ったが、ほんの数分で終点の西武新宿に到着した。

 雨は霧状で、傘を差してもあまり効果がない。JRの新宿と違って西武新宿駅からは区役所がすぐなので、京行は傘を開かずに、新宿区役所に向かって行った。

 通りは人で溢れていて、歩幅も極端に小さくなり、流れに乗りづらいことこの上ない。

 ガレキや伸び盛る草木、ぬかるみや吹雪だって身軽なフットワークで楽々かわしてゆくというのに、障害物が人間となってしまうと、たちまちうまくいかなくなってしまうのだ。

 それでも京行は大通りを歩いて行った。裏通りの方がすいてはいるのだが、さすが快楽の街新宿だけあって、こんな時間でも呼び込みのあんちゃんがうようよいて、それはそれで歩きづらいのだ。

 区役所に入り、まずトイレに入った。入り口では、【ここで洗濯その他、トイレとして使用する以外の行為を禁ずる】という貼紙があった。なるほど、区役所の周囲に居着いている人たちならそんな行為もしかねないなと思いながら、京行は小用を足した。

 ここでは京行の姉の書類を集めた。姉夫婦は、今は埼玉の春日部に住んでいるのだが、結婚当初は新宿区に住んでいて、その場所を本籍地にしたのだった。

 引越し後も本籍地は新宿区から移していないので、姉の戸籍謄本と現住所が記載されている戸籍の附票はここで取れるのだ。

 今現在、全く生活に関係ないところで自分の戸籍がある。こういうことに疎い京行には実に不可解に感じるものだったが、市本に聞いたところ、本籍地はどこだって構わず、住んでいる場所と違う本籍地の人はたくさんいるということだった。中には遊び心から、ディズニーランドや東京ドームなど、有名建物の所在地にしている人もいるという。

「じゃあおれ、北海道の大雪山にしようかな」

 京行が冗談でそう言うと、市本がニヤリと笑いながら、取りにいかなくちゃいけないとき大変ですよ、とすぐに切り返した。

 申請用紙を書いて受付に出し、二十分程待つと番号が呼ばれ、京行は二枚の書類を差し出された。

「こちらが戸籍謄本でこちらが附票です。よろしいでしょうか。二通で七百五十円になります」

 よろしいも何も、京行は市本から教わったままに集めただけで分かりようがない。どちらにも姉の名前が載っているということだけ確認するとレシートと一緒に受け取り、区役所をあとにした。

「えっと、次は文京区役所か」

 京行はメモを見ながら呟くと、再び霧雨の中を駅へと歩いて行った。