まつやま書房TOPページ>Web連載TOPページ>中島茂の点描 マッカーサー>第二章 はじめに | ||||||||||
東京とワシントンの二つの椅子のすわり心地よさの比較 マッカーサーがこの参謀総長職の椅子に座っていたときと、その後十五年経って座った東京のGHQのマッカーサー執務室の古びた椅子(第一生命社長石坂泰三が使っていたものをそのまま使った)の、マッカーサーにとって座り心地よさの比較ということになりますと、これまでの叙述から推量してそれは文句なしに東京の椅子に軍配が上がると皆さんも思われることでしょう。この椅子こそマッカーサーにとっては片時も離れられない、離れたくない椅子なのでした。 マッカーサーは朝鮮戦争を終結させる戦略上の意見の衝突により、トルーマン大統領から罷免されて帰国するまで、実に十四年間も帰国していないのです。マッカーサー自身は良いとして、二度目の妻ジーンとの間に生まれた息子のアーサーはもう十三歳にもなります。このアーサーにもまだ母国の姿を見せていません。これは大きな謎です。 さてこの章は母メリーについてだったですね。マッカーサー個人の話が大分長くなって本題から外れてしまいましたので、ここでは以下のように簡単に結論付けて元に戻しましょう。 このマッカーサーの大きな謎のもとになる二つの椅子のうち、東京の椅子は圧倒的にすわり心地がよくて、マッカーサーは東京を離れる気持ちにはならなかったのでしょう。この椅子に座って日本にいる限り、彼は天皇の上に君臨して救世主、イェスキリストの再来として多くの日本人から崇められていたのですから。 さて、米国陸軍最高位職にありながら大不況という時代の激浪にもまれ続けて苦労してきたマッカーサーも、五年の任期を終えて参謀総長職から離れることになりました。 陸軍ではもうこの上の職はありません。そのときマッカーサーを訪ねてきたのは長年のフィリピン勤務で親友となっていたフイリピンの政治実力者、マヌエル・ケソンでした。そのときケソンは近く行なわれるフイリピン連邦大統領選の有力な候補者でした。マッカーサーはケソンの熱心な奨めにより、フイリピン元帥の称号でフイリピンの軍事顧問という肩書きで、三度目のフイリピン行きになりました。 さて、ここでお待ちかねのメリーの出番が回ってきました。 一九三五年十月、メリーはマニラにいる息子のもとに行くためフーバー号に乗船して太平洋を渡っていました。このとき彼女は「これが最後のご奉公」と悟っていたに違いありません。すでに八十四歳、そして心臓を患っていましたので、フイリピンまで一ヶ月余の長い船旅はかなり体にこたえるものでした。しかしあえてそれを決意し、最愛の、今となっては一人息子となったダグラスの許に身を寄せることにしたのです。 つらい船旅に耐えて太平洋を横断中、メリーは最後の大きな仕事をしました。 同船の客のテネシー州マーフリーボロ出身のジーン・マリー・フェアクロスという若いチャーミングな女性と知り合ったのです。メリーはジーンと会って一言二言会話を交わした途端、この女性こそ息子ダグラスにとってもっともふさわしい生涯の伴侶になるのではないかとのひらめきを感じました。 メリー自身も南部出身のせいもあり、メリーとジーンは大の仲良しになりました。船がマニラに着いての別れ際、メリーはジーンに、旅を終えたら必ずマニラに立寄るようつよくすすめました。 話は前後しますが、このときダグラスは最初の妻と離婚してからすでに六年以上孤独の身をかこっていました。ジーンはそのとき世界一周旅行の途中でした。彼女は旅行を早めに切り上げ、マニラにやってきました。そこでダグラスとジーンは恋に落ちました。 母メリーはこの大役を果たした直後、一九三五年十二月、春を待たずしてマニラで死にました。享年八四歳でした。 私は自著「マッカーサーとはどんな人」の中でこのくだりにきたとき、次の二つの川柳が浮かびましたので、挿入しておきました。 |
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ゼネラルに南部オキャンはよく似合い 八十路超え子離れはたし黄泉詣で |
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「偉大な母メリー」」は今回で終了です。 次回のテーマをお楽しみにお待ち下さい。 |
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