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一.偉大な母メリー(Mary Hardy・MacArthur)


 ダグラス・マッカーサーの母メリー、あだ名はピンキー、はバージニア州、ノーフォークの豊な綿商人の娘として生まれました。豊な教育を受け、活発な南部娘として育ちました。

 あの、偉大なダグラス・マッカーサー将軍を生み育て、孟母三遷も顔負けに生涯息子ダグラスに付き添って移動し、教育し続けた母メリーという女性は,並大抵の女性ではなかったようです。若い時代の彼女の存在、性格を生々しく伝える貴重な資料がありますのでそれをご紹介しましょう。

 ダグラスは幼年時代、父アーサーと共にアーカンソ州リトルロック、セルダン兵営の宿舎にいました。この兵営の近くで育ったエレノーア。クシュマンという人はマッカーサー親子の生活状態をよく観察できる立場にいた人ですが、かれは後々マッカーサーに、彼の母の印象を次のように書き送っています。
  

「私彼女のことを今でも鮮明に記憶しています。彼女は若いハヤブサのようでした。活発で行動は素早い。彼女の目はきびしくまた同時にやさしさも秘めていた。私の映像として記録されている彼女の姿は、白のモスリンドレスの絹ずれをあたりに豊にただよわせ、ニューメキシコの白い輝く太陽光、その舞台の中央に私が生涯忘れ得ない偉大なすらっとした女性がいた。

 私の彼女の記憶の映像は近代写真とまったく同じものです。この記憶の映像に用いたライトと角度は彼女のすばやい身ごなしと彼女のキリットした思考、性格の面に焦点を当てたものです」


 メリーは三人の男の子を産みました。長男のアーサー三世、二男のマルコム(五歳のときハシカで死亡)そして三男のダグラスです。

 メリーは末っ子のダグラスについて「この子はある特別な使命をもって産まれてきた子だ」と直感したといわれています。それだけにこの子を大成させるのはまた自分の使命であると感じ、彼女はダグラスに最大の愛情を注ぎ育てます。

 セルダン兵営の近くには学校がなかったので、子供の教育はもっぱら彼女の仕事になりました。彼女は教育の基本として次のことを子供たちに教えました。

  1.義務。どのような個人的な犠牲を払ってもやらなければならないこと。それは正義を守ることである。

  2.ウソをつかぬこと。ムダ口をきかぬこと。

  3.他人と競争して勝ち抜くこと。

 メリーが八十四歳で、不自由な異国の地フイリピンでその生涯を終えるまでできるうだけ多くの時間をダグラスと共に暮らし、わが子の成長、立身出世を見守ろうとしました。





ウェストポイント時代の生活 ダグラスは一八九八年、ウェストポイント士官学校に入学し四年間の学生生活を送ります。

 このとき夫のアーサー・マッカーサー少将はいまだフイリピンに在任中です。メリーは夫の赴任中はその士官学校の近くのホテルに住み、夕食後は必ず息子と三十分の散歩を楽しんでいました。このときの親子の情愛、スキンシップの情景が伝わってくるようですね。

 一九〇三年、四年間の課業を終えてマックが卒業したときは大変です。彼はウェストポイント開校以来のトップの成績、平均点98.14、ある科目については百点満点という成績で卒業しました。彼女の、幼年時代のダグラスに対する基礎教育中の「他人と競争して勝ち抜くこと」がバッチリ効いたんですね。


第一次世界大戦とマッカーサーの武勇伝 希望の星であったわが子ダグラスの活躍の場、第一次世界大戦が始まりました。一九一七年、米国はドイツに宣戦布告をしました。このときダグラス・マッカーサー大佐は全米の州兵で組織した「レインボウ師団」の参謀長としてヨーロッパに出陣しました。鉄兜も防毒マスクも一切つけず、ピストルと乗馬のムチ一本で戦場を駆け巡る姿に、部下の将兵はみな奮起して戦いました。

 このときの二度の負傷と戦功によりマッカーサーは叙勲を受け、たくさんの勲章をもらい准将に昇進しました。このとき彼三十八歳、三十八歳で将軍の仲間入りですよ。「運命の子」わが子の武勲、昇進をどれほど喜びと感謝の気持ちで迎えたか、母メリーの心中が察せられます。なにせメリーが口癖のようにダグラスに語り続けてきた言葉は「お父さんのような軍人になりなさい」でした。

 父アーサーは、南北戦争のときは十七歳で北軍に身を投じ「命知らずの武勇を振るって戦場を駆け巡り、重傷を負いながら奮戦し、二十歳で大佐に昇進した」(これも米国陸軍史上初の記録)という武勇伝ではダグラスの先輩だったのですから。