まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>中島茂の点描 マッカーサー>第二章 はじめに



栄進を続けるマッカーサー ダグラス自身の才能にあることはもちろんでしょうが、父アーサーが長年に亘って築いてきた陸軍省内の有力者たちとの人脈による支援、そしてこの並外れた行動力をもつ母メリーの陰の(あまり陰ではないですね)努力により、ダグラスは栄進を続けていきます。

 第一次世界大戦では数々の戦功を挙げたダグラスは一九一九年帰国すると母校ウェストポイント陸軍士官学校の校長職が待っていました。

 ウェストポイント在職中の三年間、ダグラスが真っ向から取り組んだのが四十年時代遅れといわれていた母校の近代化改革でした。しかし、これは軍の保守派の頑強な抵抗に会い悪戦苦闘することになりました。

 その後、ダグラスに二度目のフイリピン勤務が回ってきましたが、その在職中の一九三〇年、父アーサーも果たせなかった夢、陸軍参謀総長就任の栄誉を担う日がやってきました。ダグラス本人はもちろんでしょうが、母メリーにとっては長年の、そして最高の夢が叶ったわけですから、彼女の喜びはいかばかりだったでしょうか。

 フーバー大統領からの任命を受けたマッカーサーは一九三〇年十一月、任地のフイリピンから帰国し、五十歳の若さで陸軍参謀総長(陸軍大将)に就任しました。

 ところが、この、陸軍最高の栄誉職も、客観的に時の流れ上から見れば、マッカーサーにとってはとても時期が悪かったんですね。

 マッカーサーが参謀総長に就任したこの年はまさに、あのウオール街の株式大暴落に端を発した米国発の世界経済大恐慌の始まりで、この大不況は日本を含む全世界に広がり始めた年だったのです。

 続く三二年五月、不況と失業に苦しむ旧軍人たちの起こした「ボーナス・マーチ事件」の鎮圧にかかわったマッカーサーは、その後の彼の人生に大きなダメージを受けるようになりました。

 総長室に老いた母メリーを呼び寄せ、人生の絶頂期にあるべきマッカーサー母子も総長在任中は、他のいかなる時期よりもその任務の重さと重なる、そのときの大不況から発生する苦難に懊悩の日々が続いていました。

 この「ボーナス・マーチ事件」でなにがあったのでしょう。このときの状況を簡単に説明しますと、第一次世界大戦に出征した失業軍人約一万五千名が、ワシントンに集結し国会議事堂を取り囲んで政府に軍務補償債権の支払いを要求したが、国会はそれを拒否していました。マッカーサーは国の命令で軍の先頭に立ち、これらの旧軍人たちに対し催涙弾を浴びせて蹴散らした、またそれらの旧軍人たちが住まいとして国会議事堂周辺に建てた仮小屋を焼き払ってしまったということから、これら失業と飢えに苦しむ、あわれな旧軍人たちに対し、それはあまりにも無慈悲ではないかという世論が沸き起こったことから始まりました。さらにマッカーサーの立場を悪くしたのは、このときマッカーサーは馬上でピカピカに磨あげた長靴に、きらびやかな軍装という「さっそうたる姿」で、という写真が出回ったということで激しい論議の中心になったことがあります。