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「武士道」に心酔したマッカーサー親子


 「日本人の精神とは何か、日本人とはどんな民族か?」を西欧人たちに紹介するため英文で書かれた新渡戸稲造の著書「武士道、日本人の精神」(Bushido, the Spirit of Japan)がニューヨークで出版されたのは明治三十二年(1899)十一月でした。小著でしたがこの書に盛られた日本人の魂「武士道」とは、日本人が儒教、仏教によって二千年の長い歴史の中で培われてきた七つの徳目、すなわち、義、勇、仁、礼、誠、名誉、および忠義を、体系的に理解しやすいように述べた、日本人に関する唯一の思想書となりました。

 古今の学に通じ、世界文学教養の高い新渡戸稲造のこの著書は各国語に訳され、たちまち世界のベストセラーになりました。

 この書を読んだ世界のリーダーたちの中にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がいたのです。彼はこの本を読み、たいへん感動して友人たちにこれを配りまた自分の子供たちにも読み聞かせたといいます。

 さらに、あの日露戦争の講和条約締結の際には『あの「武士道」の国のためなら一肌脱ごう』といって、日本とロシアとの戦争終結に向けての調停役を買ってくれました。



「武士道」広報の巨人、フランシス・プリンクリン
 セオドア・ルーズベルトのような超著名人ではなく一介の民間新聞記者、彼は英国人であるが、ルーズベルト大統領と並べてここに紹介したい人物、そして思わず「武士道」広報の巨人と呼びたくなるのがフランシス・プリンクリンです。

 プランクリンは明治維新の前年、英国公使館付武官として来日しました。
 在日中のある日、彼は偶然にも武士同士の「果し合い」に出くわしました。驚きに目を見張る彼の眼前に繰り広げられた光景は!「勝負がつき勝ったほうの武士は、先ほどまで敵として戦っていた相手に、自分の羽織を遺体にかけ、ひざまずいて合掌する姿を見た」
このときの驚きの感想をプリンクリンは次のように述べています。

 「来日した途端にヨーロッパの中世時代に似た日本の風物に接し、まず驚きの目を見張り、そして次には日本人の礼儀正しい姿に魅了された。敵に対してもこれほどまでの美しい光景を見るのは初めてだった。そのことがあってから私は、心から日本人に愛着を感じた」

 ちなみに、明治維新の前年とは明治政府の発足する一八六八年の一年前、一八六七年頃でしょうか。そして新渡戸の「武士道」が発刊されたのは一九〇二年ですからプランクリンの来日からはすでに三十五年経っている。つまり彼は「武士道」に出会う三十五年前に「武士道」の真髄ともいうべき美しい日本人の姿を実景として目の当たりにしたのです。

 それ以来プリンクリンはすっかり日本が好きになり、本国から何度も帰国命令があったにもかかわらず、日本に四十五年という長い期間永住し、日本の誠実な友人として生涯を送りました。

 そのようなプランクリンに大きな出番が回ってきました。それは日露戦争です。このときプリンクリンはロンドンタイムスの日本通信員になっていました。日本人は誠実で好戦的ではないことを知っていた彼は、日本を擁護するために大働きをすることになりました。

 プリンクリンが日本を擁護するためのもっとも有効な手段として取ったのは、なんと『日本武士道論』をロンドンタイムスに載せ、「武士道」とは決して好戦的なものではなく、いかなる人類を問わず、人間の規範として美しいものである、と解説して強く世界の世論に訴えました。

 プランクリンのこの努力が最高に実を結んだその一例として、日本の敵国であったロシア皇帝の反応を見てみましょう。アメリカのルーズベルト大統領が感動したように、このロンドンタイムスの『日本武士道論』解説を読んだロシア皇帝、ニコライ二世は感動して次のように語っています。



「日本民族がいかなる民族か、これによって始めて知った。日本を深く研究しなかった露国開戦論者の軽率妄動を憤慨する」