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「武士道」発揚の場、日露戦争


 日露戦争の期間中、明治二十七~二十八年(一九〇四~一九〇五)、欧米の主要国は満州(現在の中国東北部)の地で対決する日本とロシアの両陣営それぞれに観戦武官を派遣して、実際の戦争を学ばせていました。

 その観戦武官たちの中にアーサー・マッカーサー将軍もいました。旅順に派遣された彼は、旅順港を制圧するために悪戦苦闘をしていた第三軍司令官乃木希典(のぎまれすけ)将軍の真近にいて戦況を観察していました。

 アーサー・マッカーサーにとって「武士道」はいまや単に書物に書かれた、日本人の理論的特性ではなく実際に発揚、具現されるという、きわめてまれな機会に立会い、それを目の当たりにすることになりました。

 そこで、アーサー・マッカーサーの目に映った乃木希典という人はどのような人物だったのでしょうか。しかし、アーサー自身が乃木将軍を論評した言葉は残っていませんが、次に掲げる言葉はアーサーが息子ダグラスに対し、生涯にわたり達成すべき指針として常に息子に語りかけていたといいます。
『「武士道」の極致である乃木希典のような軍人になれ』

 マッカーサー親子が「武士道」の具現者乃木を崇敬したであろうという背景を、日露戦争中最大の難関であった旅順要塞攻略戦と同要塞陥落後の乃木と敵将ステッセルとの水師営での会見の場に見てみましょう。



第一話 死体の中から蘇った英雄、桜井忠温
 攻略不可能とロシアが豪語しただけあって、一回、二回の攻撃に多くの味方将兵の死傷者を出し、三回目の総攻撃でようやく旅順要塞を陥落させることができました。さてここで、今ではまったくといっていいほど日本人に忘れ去られた素晴らしい日本軍人、桜井忠温に登場していただきましょう。

 愛媛県松山の貧しい士族の家系に生まれた桜井は陸軍士官学校を卒業、日露戦争に出征しました。乃木大将の第三軍の指揮下に入り、第一回旅順総攻撃には少隊長として部下を指揮して戦いました。その際桜井は敵の機関銃弾を浴び、全身蜂の巣のようになりました。集められた死体の中に桜井も混じっていました。しかし、桜井は奇跡的に火葬寸前息を吹き返しました。
 入院中桜井は当時の戦況を綴る「肉弾」を執筆、この書は乃木将軍の題字で翌明治三十九年に出版されました。

 この本のすごさはその内容にあることはもちろんですが、その反響のすごさです。英、仏、独、伊とう十五ヶ国に翻訳され世界のベストセラーになりました。まさに、本家の「武士道」にも迫るほどの勢いです。

 ただ単に勇敢に戦ったという叙述ではなかったんですね。極限の中で部下や親友たちへの思いやり、日本の家族をも思いやる兵士たちの動静をも漏れなく綴った、超現実的な感動作だったんですね。その桜井が著書の中で述べている最も重要と思われるのは次の箇所です。

「乃木のために死のうと思わない兵士はいなかった。それは乃木の風格によるものであり、乃木の手によって死にたいと願っていた」

 この、桜井の「肉弾」に感動を受けた世界元首たち。
1.明治天皇 ― 戦後桜井に破格の特別拝謁を賜る
2.ルーズベルト米国大統領 ― 自ら二児に読み聞かせ、さらに桜井に直接賞賛の手紙を送った
3.カイゼル皇帝(ドイツ) ― 「肉弾」をドイツ全軍の将兵に必読の書として奨励した

 戦後桜井忠温は軍役の合間に作家として作品を発表し続け、昭和三年少将で退役した。絵画にも長じ、筆名は「落葉」、昭和四十年九月、八十六歳で死去。


第二話 敗将ステッセルとの水師営会見
 さらに乃木の声価を世界的に広めたのが、敵将の旅順要塞司令官ステッセルとの水師営での会見です。このときの乃木が示した敗将ステッセルに対する応対は、世界各国から集まってきていた多くの観戦武官や報道記者たちを驚かせました。彼らがまったく予想していなかった異例ずくめの会見の場となったからです。この場にアーサー・マッカーサーもおりました。

 乃木司令官は敗将やその部下の将校たちの名誉を傷つけるような写真の撮影を一切禁止しました。許可したのはたった一枚の会見写真だけでした。この写真ではステッセルや彼の幕僚将校たちロシア軍人の、武人としての名誉を重んじ、彼らに勲章の佩用と帯刀を許し、日露の軍人たちは一団となってくつろいだ形で撮影されています。

 さらに乃木は「戦争が止んだらたとえ敵将であっても対等である」といって彼らに酒肴を提供して彼らのそれまでの労苦をねぎらいました。

 この、乃木の恩情味あふれる、かっての敵将たちに対する応対は、難攻不落の旅順要塞を陥落させた武功と併せて世界に報道され賞賛の的となりました。


A.イアン・ハミルトン中将 ― イギリス、の目に映った乃木大将
 イアン・ハミルトンは陸軍大将として現役を終えるまで陸軍の第一線で活躍した人です。退役後の彼はエジンバラ大学名誉総長になったほどの教養人です。中将のときに同盟国日本の観戦武官として満州に派遣されてきたハミルトンは、乃木大将と身近に接する機会をもちました。その彼が自著の中に次のように書き記しています。
「もし私が日本人であったなら、乃木将軍を神として仰ぐだろう」


B.敵国ロシア国内の反響
 前に述べたロシアのニコライ二世の反応のほか、ロシア国内でも乃木の高邁な人格、暖かい包容力に対し感動を呼び起こしました。ロシアの「ニーヴア」誌は、乃木の英雄ぶりを賞賛した記事を載せ、戦場にすっくと立つ乃木の姿絵を挿入しています。

 以上長々と、乃木希典の「武士道」がマッカーサー親子に与えたであろう心理的な影響の背景として述べてきました。

 ところが、それまでは理解できるとしても、日露戦争後日本とアメリカとの関係は大きく様変わりし悪化していきます。つまり、日清、日露戦争に勝ち、さらに第一次世界大戦では戦勝国の側に立ち、アジアで唯一の強国になっていく日本は、西部開拓が終わっても、西へ西へとアジア太平洋に向かって進んでいくアメリカという大名行列の前に立ちはだかる無礼者という構図になっていきます。

 日本はその後も満州を拠点として中国にまで踏み込んだので、アメリカは戦争という形で日本を手打ちにしようとしてある戦略を練ります。この戦略とはアメリカ伝統のものでアメリカが先に戦争を仕掛けるのではなく、相手国に先に戦争を起こさせる戦法です。この戦法の最大のメリットは、アメリカは戦争を仕掛けられた被害国なので正義はアメリカにあり、相手は邪悪な好戦国であると宣伝して国民の戦意をかきたてることができます。つまりアメリカの「リメンバー」戦法です。我慢ができずにハワイを先制攻撃して戦争を先に起こした日本に対しては「リメンバー、パールハーバー」をアメリカ全国民に叫ばせて太平洋戦争は始まりました。

 日露戦争が終わって三十六年後に起こったこの太平洋戦争、ダグラス・マッカーサーは米国陸軍西南太平洋司令官に任命され、ここに四年近くに及ぶ日米の血みどろの戦争が始まりました。日本は彼らを鬼畜米英と叫んで彼らを憎み、米英は不意打ちでパールハーバーを攻撃した卑怯なジャップとさげすんで戦意をかきたてて向かってきました。