まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>中島茂の点描 マッカーサー>第二章 3




 この、攻撃力を備えたPTボートによる脱出行はあまりにも無謀だというのでみなが反対しました。しかし将軍は、「月が落ちたら出かけよう」といって出発したといいます。
しかしこれはたしかに無茶なことですね。脱出をより安全確実にするためにはやはりルーズベルト大統領の指示通り、潜水艦を利用すべきでした。ましてや女子供、自分の妻子を乗せての逃避行なのですから。マッカーサーは妻子の安全より自分のプライドを優先させたのでしょうか。

 マッカーサーはこのとき離れていく島の状況を次のように「回想記」に綴っています。

「その日は終日、波止場付近は断続的に砲撃されていた。……

 かっては美しかったこの場所が、なんと変わり果てたことか。私は眼前に広がる、無残に荒れ果てた情景、焼けただれた穴だらけの岩肌を見渡した。高い木々や小さな木むらに花を交えた、鮮やかな緑の景色はもはやなく、ビルというビル小屋という小屋、地から生えてる一切のものが消し飛んでいた。

 およそ目に映るすべてのものが、片時もやまぬ爆弾の雨に引き裂かれ、あるいは崩れ落ち、島の端から端まで燃え盛った火の後が、真っ黒いシマ模様を残していた。ところどころ、大きく口を開いた裂け目からまだチラチラ炎が吹き出ていた。すべてが灰色一色の廃墟だった」

 以上のように、コレヒドール島要塞に対する日本軍の砲撃の跡のすさまじさを描写しています。それにしてもマッカーサーは強運の人でした。

 四隻のPTボートが最初に目指したのがミンダナオ島でした。途中なんども日本の巡洋艦に出会わせましたが漁船と見間違われたらしく、幸運にも大事に至らず、出発後二日半ほどでミンダナオ島カガヤンに到着することができました。ここからオーストラリアから派遣されたB17重爆撃機でオーストラリアのダーウインに着いてから記者団に発表したのがあの言葉「わたくしはまた戻る、I shall return」です。この信念が彼がリターンを実現する幸運を引き寄せたのでしょう。

 それにつけても、前述の、日本軍の猛烈な砲撃にさらされ、廃墟になりつつあったコレヒドール要塞にこもり、そしてまた無謀なPTボートによる海上脱出に駆り出されたときのジーンやいまだ四歳の一人息子アーサーの恐怖には想像を絶するものがあったと思われます。息子ダグラスのそばを片時も離れようとしなかった母メリー同様、ジーンも戦時も平和時も常に夫と共に行動しました。どんな危険に遭遇してもジーンは夫と一緒なら耐えうる精神の持ち主でした。コレヒドール島脱出を無事果たしてから二年半後、日本が降伏して太平洋戦争が終わったとき、ジーンは再び夫と合流し、日本にやってきました。マッカーサーがトルーマン大統領との朝鮮戦争の戦略上の確執で罷免されて帰国するまで、実に五年八ヶ月という長期にわたり夫を支えて日本に滞在し続けました。

 この長い日本滞在の期間は、マッカーサーにとっては生涯で最高の栄光に輝き、満ち足りた人生を送っていたものと思われます。

 マッカーサーはジーンと結婚式を挙げるため一九三七年(昭和十二年)フィリピンから母国に一時帰国して以来、実に十六年間も帰国していないのです。それはなぜか。それはわれわれが単純に考えても、彼は帰りたくないから帰らなかったのでしょう。その推測は当たっていると思います。彼は帰りたくなかったのです。母国のアメリカはあまりにも住み心地が悪い。日本人が聞いたらびっくり仰天するほどアメリカにはマッカーサーに対する反対者、または憎む人たちが多くいたのです。それにはそれなりの理由があるでしょう。彼の性格とか行動に。しかし、ペンの神様ジョン・ガンサーはこういってマッカーサーを弁護しています。

 「マッカーサーを憎む人たちの多くは彼の才能、名声に対するねたみに由来するものである」と。

 一方、日本では「マッカーサー様、神様」「解放者、救世主」と多くの日本人から崇め
られています。彼は天皇の上に立つ専制君主として思いのまま日本を動かし、自由に振舞
うことができます。マッカーサーが日本に上陸した直後、彼は連合国の名でワシントンか
らこの絶対支配権を認める指令を受け取っています。

 ジーンにとって「ゼネラル」はなくてはならない人、一方マッカーサーはジーンに首
っ丈。どのような場合でもジーンは夫マッカーサーを支え続けました。

 ダグラス・マッカーサーは一九六四(昭和三九)年死にました。八十四歳でした。バ
ージニア州・ノーフォークに壮大なマッカーサー記念館が建てられ、その中央にある荘厳な黒い大理石の棺の中にマッカーサーは眠っています。その側に設けられていた同じ大理石の棺の中にジーンが納まったのはマッカーサーの死後三十六年経った平成十二年でした。

  「ゼネラル、大変遅くなってすみません」

 誠実一路、とことん夫に仕えたジーンは、マッカーサーの許に帰ってきたとき、そのようにささやいて彼に詫びたかもしれません。でも、彼女の遅い帰りも訳あってのことです。ジーンはマッカーサーより一九歳年下でした。さらにジーンは百一歳の天寿を全うしているからです。





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