まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>中島茂の点描 マッカーサー>第二章 3




三.二度目の妻、ジーン・フェアクロス
(Jean・Mary・Faircloth)



 二番目の妻ジーンについては前にちょっと触れたように母メリーがマニラにいる息子ダグラスを訪ねての船旅中に出会った女性でしたね。ジーンは香港の友人と再会、旧交を温めたのち、その後の旅行スケジュールをキャンセルしてメリーの誘いに応じ、マニラのマッカーサー親子のところにやってきました。

 息子ダグラスの暴走とも思われる、ルイーズとの最初の結婚に心労を重ねていたメリーはその後体調を崩し、心臓を病むようになっていました。息子の幸せと立身出世を生涯夢見て献身してきた母の愛は、ついに自身の生命のともし火がいまや消えんとする際に大きな実を結ぶことになりました。それはマッカーサーにとって最高の伴侶となったジーン・メリー・フェアクロスを選び出してくれたことでした。

 それではジーンとはどんな女性だったのでしょうか。

 まず、ジーンの、最初の妻ルイーズとの決定的な違いは、派手とは無縁の地味で堅実な性格の持ち主であるということです。しかし、明るくてキビキビした動作、マックの母メリーが、ジーンと会った瞬間「この娘こそダグラスにとって最良の妻となる女性」とひらめいたのでしょう。

 ペンの神様ジョン・ガンサーは東京で会ったジーンについて次のように描写しています。『マッカーサー夫人はいかにも元気のよい、色は白くはないが、こじんまりした、美しいきびきびした女性である。彼女はなに不自由のない満ち足りた生活を送っている。彼女は夫にとってはなくてはならない人である。夫は妻に首っ丈、妻は夫を神様のように尊敬している。妻は夫を「元帥、ゼネラル」と呼ぶ。

 夫人は総司令官にとっての大事な協力者である。彼女は忙しい社交方面を一切引き受け、社交などぜんぜんやらない元帥に代わっていろいろなお偉方に敬意を表し、そして大使館でお客を招くときは、とても愛想のいい奥さんになる。

 マッカーサー夫人は、こうして自分の役割を果たすときに、彼女は総司令官夫人だというようなそぶりはぜんぜん外に現さない。宴会などに出席した場合でも、彼女は完全に他の将校連の夫人たちの間に入り込んで、自分が特別な人間だというような態度は少しも示さない。

 夫人が銀行で預金を引き出すときも、一般の人と一緒に並ぶし、PXに買い物に行くといった調子で、全くなんらの特権をも要求せず、あらゆる人々から賞賛されている。
彼女には一九三八年マニラで生まれ、今年十二歳になるアーサーという男の子がいる。アーサーには通称「ギビー」と呼ばれているイギリス人の家庭教師がついている。「ギビー」ことフイリス・ギボンズ夫人は戦前フィリピンで学校の教師をしていたが日本軍に捕らえ
丸三年間も捕虜収容所で過ごしたという経験の持ち主である。アーサーは彼女に完全になつき、彼女もアーサーをこの上なく愛している』

 ガンサーの以上の点評は彼が「マッカーサーの謎」を書くために日本にやってきた昭和二十五年のときのもので日本占領後五年経ち、経済はいまだ浮揚する時期にはいたっていなかったが、戦争はもうなくなり、新生日本の立ち上げにのみに専念すれば良いという平和な時代が続いているときでした。(しかし、朝鮮戦争がこの後すぐに始まります)

 ジーンがマッカーサーと正式に結婚した昭和十二年に日中戦争が始まりますと、アメリカは中国の背後で中国を支援し、米中共闘で日本潰しにとりかかりました。

 ジーンの生涯での最大の苦難は、夫マッカーサーと共にマニラで暮らしていた昭和十六年から始まりました。日米開戦と同時に始まったハワイ真珠湾攻撃、そしてフィリピンも同時に攻撃を受けました。日本の一式陸攻とゼロ戦計三百余機がクラーク・フイルドのフィリピン飛行基地を襲いました。天候の都合で日本軍の空襲時間が予定より遅れたのが日本軍に大きな戦果をもたらしました。その反面、マッカーサーの米比軍は大損害を受ける結果になりました。

 日本軍がクラーク飛行場に達したとき時刻は正午になっていました。このときフィリピン防衛空軍の乗務員は昼食の最中でした。米比軍の主力機B17三十五機の大部分が一瞬にして爆破、炎上してしまいました。

 豪華なマニラホテル住まいのジーン、マッカーサー一家は、瞬時にして大戦争の渦に巻き込まれていきました。

 緒戦の大きな戦果によって日米軍フィリピン攻防戦の帰趨が決まりました。

 そうはいっても、マッカーサーが青年将校時代からかかわり築いてきたバターン、コレヒドールの強固な防衛陣です。上陸してきた本間中将率える第十四軍は大苦戦を強いられることになりました。

 最初の日本軍の計画では四、五日でこの地域を制圧するということでした。しかし日本軍にはこの地域の地図一つ無く、またこれほど強固な防備を築いていたことも知りませんでした。作戦計画の三倍もの時間をかけてバターンの防衛陣を攻略し、日本軍がコレヒドール要塞に迫ったとき、防衛米比軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーはルーズベルト大統領の強い指令によってオーストラリアに脱出し、そこで再起を図ることになりました。

 夫とコレヒドールの要塞に立てこもり日本軍の空襲、砲撃を受けて無残な廃墟の姿になっていた島から脱出する日がきました。ジーンは夫に従い四歳になる息子アーサー、それにアーサーが生まれるときからいて家族の一員となっていた中国人アマのアーチェも一緒に逃れることになりました。

 大統領命令では脱出は安全を第一として潜水艦に乗るようになっていました。しかし、マッカーサーは主張しました。以下は「マッカーサー回想記」から。

 「私はフイリピンから脱出に当たって、潜水艦でもぐるよりはPTボート(高速魚雷艇)で封鎖線を突破しようと決心した。高速魚雷艇隊にこの船がまだ四隻の残っていた。私たちは作戦計画を練った。敵に発見された場合には攻撃する計画で逃げることは考えなかった。

 各艇には前部後部に計十六発の魚雷がついていた。魚雷一本は優に駆逐艦一隻、時には巡洋艦一隻をも撃沈することができる。日本の巡洋艦に見つかった場合には、直ちに攻撃に転じて一斉発射で魚雷の列を発射し、後は早いスピードに頼るという計画であった

 この脱出行は、ジョン・D・バルクリー海軍大尉指揮下にある。この、残っていた四隻のPTボートに分乗、マッカーサーおよびその家族、それにマッカーサーに随行するため選ばれた十七人の軍人たちを乗せ、夜陰にまぎれてコレヒドール島から脱出した。

 一九四二年(昭和十七年)三月十一日の夕刻、私の時計で午後七時十五分に、私は玄関に座っていた妻のところへ行き(ジーンもう車に乗る時刻だよ)とやさしく言った。私たちは静かなドライブの後、バルクリーがPTボートで待機している南波止場に着いた一行のほかの連中はもう艇に乗り込んでいた」




中島茂の点描 マッカーサーtopページへ