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はじめに(1)


 ダグラス・マッカーサーはアメリカ軍人としてはずば抜けたスピードで階級を駆け上り、アメリカ陸軍史上トップクラスの出世を遂げた人です。  

 三十八歳で准将、五十歳で陸軍参謀総長、陸軍大将そして元帥と米国陸軍の頂点を極めました。

 つまり、軍人としてまれにみる才能に恵まれ、立身出世して華麗な人生を送ったマッカーサーですからかりに本人にその気はなくとも、女性のほうが放っておくわけはありません。ましてや、彼の男ぶりのよさは並大抵ではありません。ほとんど伝説的といわれるほどの美男子振りです。

 アメリカのペンの神様とまで称されていた有名な新聞記者、ジョン・ガンサーは、「マッカーサーの謎」というタイトルの本を書いています。

 ガンサーがこの本を書くため東京にやってきたのは昭和二十五年六月初旬です。ガンサーは彼の「神のようなペン」でこの書の中で七十歳のマッカーサーの容貌について次のように分析しています。

「彼は素晴らしく男ぶりがいい ― 疑いもなく、現代における最も男ぶりのよい男性の一人であろう。この美貌はありきたりの美しさというだけでなく、内部から染み出てくる魅力、生活力の美しさである。彼はまたびっくりするほど若く見える」と。

 しかしマッカーサーという人はどのような環境、地位にあっても、派手に女性たちと交流したり浮名を流したりするようなタイプの人物ではなかったようです。そのようなことをするのは人間だからです。マッカーサーは人間以上の存在、つまり神の領域に住むことを常に考えていたようです。このことはまたあとで折にふれてお話しましょう。

 マッカーサーにかかわる女性たちを語るとき、あの偉大な人物ダグラス・マッカーサーを生み育て、教育をした母メリーの存在は大きなものがあります。そして彼の二人の妻となった女性、とくに二番目の妻となったジーンは社交性のまったく不在なダグラスを支え、補って夫を大成させたその功績は見事というよりほかはありません。ガンサーも彼女を取り上げほめたたえています。

 軍人としてのマッカーサーは、アジアとくにフイリピンと日本に大きくかかわってきました。フイリピンは一八九八年の米西戦争で勝ったアメリカがスペインから奪い取った領土です。そのとき、ダグラスの父、アーサー・マッカーサーは米陸軍参謀長としてフイリピンに攻め入り、戦後ははじめてのフイリピン総督となりました。つまり、父のアーサーは、ダグラスが日本占領統治を始める四十年ほど前にすでにフイリピンの行政責任者としてフイリピンを統治していました。ダグラスの親にしてまた同時に占領国の行政責任者として大先輩だったんですね。

 ダグラスはこの縁をきっかけかけに、ウェストポイント陸軍士官学校を卒業後、ダグラスはなんどもフイリピン勤務を命ぜられて赴任していきます。

 最初にダグラスがフイリピンの地に足を踏み入れたとたん、彼はこのトロピカルの風情のとりこになってしまいます。ダグラスの死の直前、一九六四年の初めに出版された「マッカーサー回想記」の中で彼はこう語っています。

「フイリピンに私は魅了された。気持ちのよい親切さ、私の父に向けられている尊敬と愛情、スペインの文化とアメリカの産業が織り成す驚くほど魅力的な姿、生活のしごくありふれたしきたりまで何か特殊な魅力のあるものに仕立て上げるものうそうな怠惰の空気、遊び好きな男たち、月光のように繊細な美しい女たち ― 私はこういったものの全なトリコとなり、いまだにそれらから抜け切れない

 ちょっと長い引用ですが、若くて情熱的、そして超ハンサムなダグラスのことです、太線で示したあたりに彼は大いにトキメキを感じたのではないかと想像したくなります。

 事実、現地フイリピン女性の愛人ができ、あるときダグラスは帰任の際彼女をアメリカにつれて帰ったこともあります。