小舎にも、しばしば「自分史」を発刊したい、とご注文いただく。大変有難く、しっかりしたものを出すのだが、「売れませんよ」「そんなに読まれませんよ」「家族にもそんなに喜ばれませんよ」ということをしっかりと納得していただく。
なぜなら、よほど全国的にも著名であり、またはその破天荒な生き方が面白い人で、その生きざまを知りたい、真似したいと言う人ならともかく、それ以外なら、自分史は「所詮自慢話」であるからだ。
戦争体験、よほどの冒険、悲惨な体験なら、出す社会的意味があり、まだ救われるが、それ以外の所詮自慢話に、人は読みたいとは思わない。その著者を知る人、お世話になった人は読んでみるだろうが、知らない人には興味がないのが当たり前である。
さて、本題はそのことではない。なぜそんな自分史を出すかである。
人はある時点で「自分のことを再認識したい」「分析したい」「振り返ってみたい」と言う時機が何回かあるものである。そのためには、どんなに読まれまいが、一度は記す必要があるものなのだ。
特に、男は、会社に埋没し、がむしゃらに生きねば生きていけない(女性の方も同じでしょうが)、そんな生き方をしてきたとき、「来し方を振り返る」ことは必須事項である。
そして、記して振り返ることが大切である。考えて振り返るのは執筆のプロならできるであろうが、一般人には無理である。
だから記してもらって、原稿を見せていただき、1章はこれ、2章はここまで、3章はここで転換期ですから、ここからにしましょう、と説明すると、著者は、なるほどそういう区切り方があるのか、と感心していただくことがしばしばある。つまり意外に人というものは自分の生き様、歴史を整理できないものなのである。
本にし、まがりなりにも書店にあるのと、同じ本を出版するのは、定年後なら、再出発のための大きなメルクマールなのである。
就職し、家庭を持ち、子どもも独立し、会社も定年になり、さて次の人生は、という時、そう簡単にはその航路は見つかるわけがない。いや、見つからないのがほとんどであろう。しかし、自分の生き様を振り返り、記すのは無駄ではなく、これからの生き方を見つける大きなヒントになるのである。通過儀礼と言う言葉があるが、まさに自分史を記すのは、必要な通過儀礼なのである。
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