やまさんの歩いた、見た、考えた 秩父山里訪歩紀行
山浦正昭 絵・文
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このページはまつやま書房刊行の「やまさんの歩いた、見た、考えた 秩父山里訪歩紀行」の試読用のページとなっています。
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 また文章は発刊当時の文章を掲載しています。よって現在と多少異なる箇所がありますので、ご了承下さい。

本書の目次*青文字の表題を“ちょっと見!”できます。 
歩き出す前に
 ・しらみつぶしに歩く
 ・土地の人とふれあいのない歩きはさみしい
 ・歩きは、おしゃれな自己表現である
 ・何を知り、どう伝えるかが大切
浦山、奈良尾 ―皆野町― 自分の名前に似た地名に惹かれる
・浦山 カタクリの群生地
・風早峠から奈良尾峠へ 紅葉が終わった落葉樹
・奈良尾峠 ハガキサイズのスケッチ
・奈良尾 見事な山村集落
・門平 自然の中での日光浴
・浦山、奈良尾を歩いて            
  人々のくらしで使われてきた道が
   今でも残っているのはうれしい
・皆野町ウォーキングガイド
矢納 ―神泉村― 埼玉県にありながら生活は群馬県
・鬼石 古い街道筋の町
・鳥羽 城峯公園の冬桜
・下久保コテージ 校庭利用のスケート場
・石間峠 将門伝説を探るみち
・浜の谷・高牛
・城峯山 上州の山並み
・山村の素朴な体験が出来る場に 矢納(神泉村) 
・山村集落と西上州の山並み展望
・民泊のシステムがあればよい
・神泉村ウォーキングガイド
太田部、石間 ―吉田町― 城峯山の山麓にひっそり
・太田部 地すべりで移る
・地元の人の家で昼食
・分校も休校
・石間 かろうじて残る旧道
・古い木製の火の見やぐら
・今の山村の姿を、
 きちんと記録し、次の世代へ伝えよう
・山村らしい景観は色濃く残る
・古いものは、自然に朽ちるまで
・吉田町ウォーキングガイド
長久保 ―小鹿野町― 山里の素朴なくらしが残る
・ 日尾 ダムで水没した集落
・長久保 つきたてのとちもちをいただく
・寺平 山奥の一軒家のくらし
・矢久 ブロッコリーづくりの名人おばあさん
・山奥での昔の生活体験が
  最もエコロジーな暮らしのライフスタイル
・小鹿野町ウォーキングガイド
薄、小森 ―両神村― 集落の里まで村営バスが入る
・大平 スケッチしていたら、昼によばれた
・加明地・西平 地図にない道を見つける
・日向・日陰 川をはさんで向かい合っている
・四阿屋山 フクジュウソウの群落
・堂上 セツブンソウとアズマイチゲ
高指・煤川 山の上の一軒家は今は廃屋
長又 ひと風呂浴びる
両神村を歩いて 土地の人の人情を感じた
両神村ウォーキングガイド
上田野、日野 ―荒川村― はじめてテントではなく、宿利用のウォーキング
・久那 秩父二十八番から二十九番の札所へ
・上田野 桜見物客であふれていた
・漆平 たった二軒の山の中での暮らし
・芦川 たまご水とは何ぞや
・日野 なぞなぞ散歩のマップを見つける
・荒川村を歩いて地域、季節を限定して、
  エリア全体をエコロジーパークに
・荒川村ウォーキングガイド
強石、栃本 ―大滝村― 旧秩父往還の道
・強石 旧秩父往還の旧道の登り口
・秩父湖 入口がわかりにくく杣道同然
・栃本 秩父らしい山村集落
・大輪 三峰神社の参拝客でにぎわった
・三峰 雨の山道を下る
・大滝村を歩いて旧秩父往還の標柱と道しるべを
・大滝村ウォーキングガイド
芦ヶ久保、横瀬 ―横瀬町― 果樹園と札所めぐり
・芦ヶ久保 山里らしい山村風景がいい
・芦ヶ久保フルーツガーデン芦ヶ久保大観音からの眺め
・日向山 あちこちに果樹園が点在
・横瀬 五番から十番までの札所
・歴史民俗資料館 獅子舞の展示を開催中
・横瀬町を歩いて 昔ながらの巡礼道が欲しい
・横瀬町ウォーキングガイド
野上、風布 ―長瀞町― 歩けば何かを発見
・野上 日本一大きい青石塔婆
・阿弥陀ヶ谷 廻り念佛
・大鉢形 道なき道
・植平 心地よい道
・葉原 なかなかよい集落
・蕪木 スケッチによい場所
・長瀞町を歩いて息子、娘に変わってお年寄りを訪問する
・長瀞町ウォーキングガイド
皆谷、坂本 ―東秩父村― 眺めのよい山村集落は、絶好の場所の歩くフィールド
・皆谷 カンコーヒーをもらう
・朝日根 分校か廃校か
・白石 廃道になる
・坂本 望郷碑
・柴 しいたけをもらう
・御堂 紙すきの里
・東秩父村を歩いて山歩きだけでなく、
  里を結ぶウォーキングコースも
・東秩父村ウォーキングガイド

・歩いた後に
 ・地図にあって現在はない集落
 ・暮らしの中での歩く道の復活
 ・地域の人でその土地の地図を作る
 ・心ある人たちがひとつにまとめる
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 歩き出す前に

 人々の暮らしと共に歩んできた歩く道を辿り、その年が発する声なき声に耳を傾け、
 その声を届けられるような歩きをしたかった
山浦 正昭

 一つの地域をじっくりゆっくりそしてたっぷり歩けば、今まで見えなかった何が見え、何が聞こえてくるのか、そんな視点で、秩父の十の山里を歩いてみた。
 でも私は、もの書きのライターとしてではなく、スケッチブックを携えた気楽なウォーカーとして、自然に見えてきたもの、自然に聞こえてきたものをキャッチするという、スタンスで接するようにした。その方が逆に、地域の思いがけない表情に接することができるからである。
 地図とスケッチブックを持っていると「ああこの人は、スケッチしに来たんだなぁ」と、安心する。道端に座りこんで、何気ない山里の風景をスケッチしていると、地域の人から逆に声をかけられることも多い。そういう意味からいうと、スケッチブックは見知らぬ地域社会に入っていく有力な手形としての効力を発揮してくれる。地図とスケッチブックのおかげで、私の歩きは他の人とは違った、独自の歩き方ができたと思う。

 しらみつぶしに歩く

 私流の歩き方の特徴は、独自にエリアを進んで、独自のコースを決めて、マイペースで歩くことである。だから、ハイキングのような歩きでもないし、札所めぐりのような歩き方でもない。つまり、どこへ行くという目的のない歩きである。ハイキングや札所めぐりが線をたどる歩き方とすれば、私の歩きは、面の歩きということができる。一定のエリアをたっぷり時間をかけて、じっくり、そしてゆっくり歩く。このように歩けば、その土地のさまざまな自然、文化、暮らしの風物と、多くの接点を持つことができる。中でもその土地の人との自然なスタイルでのふれあいは、一番の収穫である。線の歩きだと、単なる通過点にすぎない集落が、面の歩きだと重要な目的地のひとつとして、たっぷりと吸収することが可能である。
 現代人は、車のおかげで歩くことが少なくなったという声をよく聞く。でも私は、車のおかげで歩かなくなったのは、それはそれでいいと思っている。つまり、目的地への移動の手段が歩きでなく車に変われば、それだけ時間も労力も浪費することがなくなる。問題は、車に乗ることによって得たものは大きいが、逆に失ったものも大きいということである。
 私が今一番感じていることは、車に乗る生活が一般化したことによって、自分の住んでいる地域の姿が見えなくなってきているということである。車というのは、目的地へ直行するためにはとても便利だが、よそ見をしたり、急停車するには不便なものである。この結果、用がない所以外は車で行かなくなる。その土地に住んでいながら、決まりきった所しか知らないということになる。極端な例は、その土地に住んでいながら、他の町村への通勤の往復しかしないため、ますます地域社会の小さな動きや変化がわからなくなり、孤立した状態になってしまう。これは、大きな問題だ。地域の人が、地域のことを知らないのでは、とても地域社会がまとまっていくことはできない。
 今各地で村おこしや、町おこしにやっきになっているが、私から言わせれば、自分たちの住んでいる町が、今どうなっているのかをすみずみまで知らないで、何が村おこしか、と言いたい。
 健康で快適な暮らしをするために、年一回の定期検診や人間ドックでの検診が必要なように、地域を良くしていくためには、その土地の人が、もう一度自分たちの地域の素顔をつぶさに検診する必要があるのではないだろうか。

 
 土地の人とふれあいのない歩きはさみしい

 私は二万五千分の一の地形図から、歩いてみたい集落をピックアップして、実際に自分の足で歩き、自分の眼で見てきた。地図上にはある小さな道をできるだけ歩いてみた。行ってみたら、すでに廃道になってしまった道もあれば、現在でも細々ながら生き残っている道もあった。
 歩いていて、その土地の人とのふれあいは、一番の喜びである。雨が降っていて雨やどりをさせてもらったり、時には中へ招いてもらって、お茶や食事までもごちそうになったこともあった。こうした人情は、もうなかなかお目にかかることができない。写真を撮ってあげて、家へ帰ってから送ってあげたら、お礼に自分の畑でとれた野菜をどっさり送ってくれたこともあった。都会の人と、田舎の人が、ひとつのきっかけで少しずつ交流が始まることは、とてもいいことだと思う。
 今回私が歩いた道の中には、土地の人がかつて歩いたが、もう歩かなくなった道も多い。かつては通学路として、山道を毎日かけ下り、かけ登った道。部落と部落を山越えで結んだ道。いずれも、今では昔話となってしまった。
 私はなぜか、こうした人々の暮らしの中で使われてきた、人間のぬくもりを感じさせてくれる道というより路に、心惹かれる。歩く道は、ハイキングや古道として復活して、レジャーやレクリエーションとして利用されるのもいいが、私としてはやはりその土地の人が、昔のように歩く生活道として使われることを望んでいる。生活道としての歩く道の復活こそ地域再生の切り札だと、私は思っている。


 歩きは、おしゃれな自己表現である

 健康のために歩く歩けば健康になる
 世の中健康ブームのおかげで、歩く、という行為も注目されてきている。
 でも私は言いたい。自分の健康のために歩くなんて、小さい!小さい!と。
 これからは、自分を含めて、地域再生のために歩くと言って欲しい。
 健康のためにということは、つまり生活習慣病の予防と治療である。たしかに、生活習慣病対策としては、まずは運動不足を解消するための一番手頃な運動としての歩きとしてのウォーキングは、効果のある手法である。
 でも、人間の努力には限界がある。まじめにウォーキングにとり組み、生活習慣病の予防と治療に、せっせと動く人はいい。問題なのは、そういう自覚のない人、自覚はあっても実行に移さないでいる人である。少しぐらいアルコールや甘いもの、油のもの、肉類などをセーブしたらいいのにと思うくらい、だらだらとした食生活を続けている人も、ちょっとそこへ行くのにも車がゲタがわりだし、エレベーターやエスカレーターにはすぐ乗り、ちっとも動こうとしない人々。もう、いいかげんにして欲しい。
 こうした人を救うには、歩きたくなる魅力的な環境が必要である。健康のためでもない、まして移動手段としてではない、誰でもが自然と歩きたくなる道づくりこそ大切である。
 つまり、歩きがもっと魅力的で、おしゃれにならなければならない。実用的な歩きではなく、もっと歩くこと自体が自己を表現するものでなければならないと駄目である。
 歩くという行為を、実用的で充実させていくことは、もっともっとやって欲しいが、それ以上に、おしゃれでなくては、歩きたくない人まで惹きつけることはできない。
 私は秩父の山里を歩きながら、どんな歩く道ならば、多くの人を惹きつけることができるかを想いながら歩いてみた。そして、どうすれば、そういう魅力的な歩く道ができるかも考えながら歩いてみた。
 歩く道が、文化的な、芸術的な価値にまで高めることができれば、放っておいても人は歩きに来るであろう。日本でも文人の大町桂月が歩きや奥入瀬三里半といった十和田の奥入瀬は、一般観光者でさえもバスを降りて歩いてみたいと思うし、大和盆地にある山の辺の道は、今でも歩く人は多い。
 このように、日本各地に魅力的に歩く道が出現してこそ、本当の歩く文化が成熟してきたと言えるのだと思う。


 何を知り、どう伝えるかが大切

 ある土地へ出かけて、実際に歩いたら、何を残せるか、残さなくてはならないのか!
 私はまず歩いたところ、歩いた道の地図を詳しく、書き残すようにしているのと、写真はもちろん、毎回何枚かのスケッチも描き残している。それと旅行日記も書いている。つまり、地図、写真、スケッチ、文の四本立てで記録を残している。あと、現地で集めた資料や、地方でしか売っていないような地方出版物も、できるだけ入手するようにしている。
 おかげで、私のザックは帰る時には、本や資料でいっぱいになる。役場にも寄って観光パンフレットはもちろん、役場に置いてある一般のパンフレット等にも、興味あるものがあればもらって帰るようにしている。役場は、一万分の一の縮尺の地図を入手できる所でもあるので、時間があれば立ち寄るようにしている。
 歩いて得た情報や、現地の実情について、自分の胸の中にしまいこまないで、できるだけ、何らかのチャンスをつかまえて伝えていきたいと思っている。そうしないと、なかなか、地域の実情が伝わりにくい。本来ならば、地域の新聞などのメディアがそうした特集企画を組んで、街角でレポートするなり、行政が独自に、たんねんに聞き取りを行うことがあれば、もっといいと思う。
 しかしながら、歩く人こそすぐれた“ウォーキング・ジャーナリスト”であるのだと思う。一人よりも二人、二人よりも三人と、多くの人の眼が、その土地に向けられれば、もっと多くのメッセージが伝えられるのだと思う。
 だから、これから地域を歩く人は、これからの地域再生の担い手としての役割も果たすことができるのだという自覚も、必要ではないかと思う。
 今回の「歩いた、見た、考えた」というタイトルは、そうした私の思いを表したものである。
 とはいえ、まずは、足を秩父、それも山里の集落へ向けていただき、自分の眼で、自分の足で、そして自分の頭で、秩父の山里の現実を、もう少し詳しく知っていただきたい。
 その道しるべのきっかけづくりを、本書が示すことができたらと願う。





浦山、奈良尾 ―皆野町― 自分の名前に似た地名に惹かれる

 手元にあった二万五千分の一「鬼石」を見ていたら、皆野町の奥深いところに浦山という集落が目に入った。浦山を逆さに読めば山浦となり、私の名前と同じとなる。どんな集落で、どんな人たちが、どんな暮らしをしているのだろうか。たった今見ただけの集落が、自分にとって無視できないところになってしまった。
 地図を見るとこの辺りには藤原、重木、奈良尾とどんづまりの集落が点在している。これらの集落を結ぶ何本かの山道も載ってはいるが、このうち何本が今でも道として生き残っているかは、実際に現地へ出掛けて自分で確かめてみなければわからない。
 念のために皆野町役場へ資料を頼んだら、平成五年発行の一万分の一が送られてきた。私の手持ちの二万五千分の一よりは詳しい。すでに二万五千分一にある多くの山道が消えていた。道は生きものである。現地に行くと、地図にあるべき道がなかったり、地図にはない道が現れたりする。だから、おもしろいともいえる。まるで難事件を解決する名探偵みたいに、ひとつひとつの歩く道をていねいに探っていくのがとてもワクワクする。単なるハイキングやウォーキングとはひと味違った気分だ。
(一九九九年十二月十一〜十二日歩行)

 浦山 
  カタクリの群生地


 皆野町を十二時三十分に出発する町営バスの金沢線で終点の更木で下車。バスはここまでだが、車なら林道を通って群馬県の鬼石方面へ抜けられる。
 更木は谷沿いの小さな集落で、すぐそばまで採石場が迫ってきている。男岳、女岳と一対の山も、現在は男岳は削り取られて女岳しか残っていない。やはり、女の方が強いというわけなのだろうか。
 更木から浦山へ向かって歩き出す。まず右手に天満天神宮の鳥居と石段があったので上がってみる。小さい社殿だが、ボタンと波の模様の青く彩色された見事な彫刻があった。帰りは山道を下って降りる。神社から少し行ったところに木工房ナガリ家という看板が出ていた。近くに二人の可愛らしい女の子がいたので声を掛けた。名前を聞いたら、恥ずかしそうにもじもじしていた。この子どもたちもバスで金沢小学校へ通うのだろう。後で聞いた話しによれば、来年の金沢小学校へは双子の男の子が二人だけしか入学しないとのこと。年々生徒数は減る一方のようだ。
 浦山の集落の入り口に、カタクリ群生地への近道の道標があったので右へ入る。道は途中から細くなり再び車道へ出た。
 まだ時間は三時頃だというのに、すでに太陽は山の向こうに隠れてしまい気温も低くなってきた。道ばたで車を洗っていた土地の人とおしゃべりをする。この奥さんはここに嫁に来たのではなく、ここで生まれた人だという。今では車道が集落まできたので楽に町へ行けるようになったが、それまでは下の道路まで歩いていたとのこと。こんな山奥の集落でも運動不足で糖尿病になる人がいるから驚きだ。
 地図では上の林道まで細い山道となっていたが、現在は上の林道までつながり、車でも行けるようになっている。少し登った所にカタクリの群生地の入り口があった。花の時期には見事な花を咲かしてくれることだろう。


 風早峠から奈良尾峠へ
   紅葉が終わった落葉樹 
 

 前夜は上武秩父林道から少し入った落ち葉の積もる山道の上でビバークした。夜中に起きたらまるでプラネタリウムのように星がまたたいていた。都会暮らしをしていると夜中にこんな美しい星座を見ることがない。すぐ近くに別荘地があったが、私のように好きな時に、好きな場所で寝られる人間にとっては別荘地は不要である。自然の中に必要以上に建物を造れば、それだけ自然の景観をそこねることにもなる。生きていく上で必要最小限の住居はやむを得ないが、それ以上に自然の中にむやみに建設するのは、もうそろそろやめるようにしたい。
 朝早いから林道から見る山々がとても美しい。かろうじて紅葉が終わった落葉樹が葉をつけている。あと一週間もすれば木枯らしが吹いて、全ての木の葉を丸裸にしてしまうことだろう。木が葉を落とすのは、厳しい冬を越すために、養分を葉に取られないためである。そして、冬の間中ずっと耐えて寒さや強風から身を守り、そして花になって一斉に若芽を出すのである。
 そう考えると、私たちの今の暮らしはあまりにも多くの物で固めすぎてしまっていて、限られた養分をずいぶん浪費しているように思えてならない。もっと落葉樹のように葉を落として、幹や根にしっかりと養分を貯えておく必要があるのではないだろうか。
 風早峠から奈良尾峠までは神泉村を歩き、再び奈良尾峠から未舗装の林道を下った。峠から奈良尾へ下る山道はどうやら消えてしまっているようだ。陽当たりのよい林道からは正面に武甲山がはっきり見えた。



強石、栃本 ―大滝村― 旧秩父往還の道
 私の秩父の山巡りも、いよいよ一番奥の大滝村に入った。大滝村は、埼玉県の一番西にある村で、なんと、群馬県、長野県、山梨県、そして東京都とも接している。一つの村が四つの都県と接している村は、全国的にみても少ないのではないだろうか。
 さて、大滝村をどうやって歩こうか。何しろ面積がばかでかい。となりの荒川村の七倍、両神村の約五倍で、もちろん埼玉県で最も大きい村である。
 でも、地図を見ると、集落のほとんどが国道や主要道沿いに、パラパラと点在しているだけで、面白味に欠ける。ハイキングや登山の基地としてはよいところなのだが、歩く道を求めての歩きとなると、いまいちの感がある。救いがあるとすれば、旧秩父往還の道である。残念ながら二万五千分の一の「三峰」「中津川」を見るだけでは、このルートが読みとれないが、飯野頼治著『秩父往還いまむかし』(さきたま出版社)に詳しいルートがのっていた。どうやら大滝村には、旧秩父往還の古い山道のルートが残っていて、現在でも歩けるようである。
 梅雨時のシーズンなので雨を覚悟に、三日間の予定で、大滝村の歩く道を求めての旅に出かけてみた。
(二〇〇一年六月四日〜六日歩行)

 強石
 旧秩父往還の旧道の登り口

 強石から旧秩父往還の道を探す。杉ノ峠までは、御岳山への登山コースと同じなので、道標があった。でも、二万五千分の一「三峰」には杉ノ峠のルートが入っていない。ちょっぴり不安だ。
 強石の集落を抜けて登っていく。昔ながらの風情が残るよい集落で、登るにつれて眺めもよくなり、対岸の巣場の集落も見えてくる。
 舗装された林道を進むと、ようやく杉ノ峠への登山口があった。いよいよここからが山道だ。山道はしっかりしている。休日ともなると、御岳山への登山者が多いが、今日は平日なので誰にも会わない。静かな山歩きである。
 峠へ到着した。古ぼけた休憩舎があったがベンチは一部くずれていた。道標もあり、ここで御岳山登山コースと別れる。峠の近くに地蔵仏があった。以前は小さな社があったようだが、今は残骸が散らばっているだけであった。ここから山道を一気に落合へ下った。
 落合からバスに乗り、終点の中津川で下車し、公営のこまどり荘へ宿泊した。途中、滝沢ダムの工事がおこなわれていた。このため、バスも以前のルートとは違うところを走る。滝沢ダムが完成すれば、これで、二瀬ダム、浦山ダム、合角ダムについで四番目のダムとなる。ダム建設によって、ずいぶん湖底に沈んでいた集落もあることを思うと、なんとなく切ない気持ちとなってしまいがちだった。

(続きは本書で)

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※メールの場合は、お客様氏名、書籍名、冊数、お届け先住所の4点をお忘れなく記載おねがいします
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