武蔵武士(上) 事跡と地頭の赴任地を訪ねて
成迫政則 著
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 また文章は発刊当時の文章を掲載しています。よって現在と多少異なる箇所がありますので、ご了承下さい。

本書の目次*青文字の表題を“ちょっと見!”できます。 
無名のごうりんさん
さまざまな出会い
 「一番」の軒瓦…薩摩守忠度の墓…忠度縁の地
  野辺氏本貫地発見…重衝の首塚…重衝縁の地 
庄氏
    発祥の地…庄氏の系譜…庄氏の事績
 本貫地
 地頭赴任地の庄氏 備前国小田郡草壁庄
  庄太郎家長…猿懸城歴代城主と城代…庄一族北房進出の跡
 地頭赴任地 筑前国小中庄
久下氏 業績
  本貫地
  新補地頭 丹後国栗作郷
  足利尊氏と久下氏…玉巻城
野辺氏 本貫地
  地頭赴任地 日向国櫛間院
    野辺氏の後裔…野辺氏のルーツ
  地頭赴任地 大隈国深川院
  再訪 串間市
岡部氏
    「薩摩守と岡部忠澄」…岡部忠澄
  本貫地
  地頭と所領… 伊勢国粥安富名
  地頭赴任地 長門国美袮群岩永
熊谷氏
「敦盛最後の事」…熊谷氏の系譜…熊谷直実…京都洛東黒谷…紀州高野山
  本貫地
  新補地頭任地 安芸国三入庄
  地頭赴任地 陸奥国本吉郡計仙麻庄
中条氏 本貫地
    昔の中条と常光院…中条常光ほか
 地頭赴任地 三河国高橋荘
           若狭国太良荘
           陸奥国刈田郡(中条刈田氏)
           陸奥国和賀郡(中条和賀氏)
           出羽国小田島荘
成田氏 本貫地
    武蔵七党…横山党…成田氏…成田氏関係年表
 地頭赴任地 和泉国信太郷
           出雲国坂田郷
           出雲国来海・宍道郷
           阿波国麻植保
           陸奥国鹿角郡
安保氏 本貫地
    阿保氏遺跡碑…丹党の成立と安保氏
 関係年表…建武の新政と論功行賞
 地頭職 安保氏の跡を訪ねて
 地頭赴任地 播磨国須富庄
          近江国箕浦庄
          陸奥国鹿角郡内柴村
          出羽国海辺余郡内宗太村
          信濃国小泉荘内室賀郷
小川氏 本貫地
   武士の起こりと小川牧…西党…小河氏と二宮氏
  地頭赴任地 薩摩国甑島
小代氏 本貫地
   武蔵七党…児玉党小代氏…小代氏の業績
  地頭赴任地 肥後国野原庄
  小代行平 越後国青木郷 安芸国壬生荘
  
  あとがき
  参考文献
  ご協力者一覧表
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   無名のごうりんさん
 私の本家(大分県)の庭先にごうりんさんと呼ばれる、苔むした二つ重ねの石があった。五輪の塔で、火・空・風輪が散逸したものであろう。上京しても気にしていたAごうりんさんBであった。
 昭和五十五年(1980)頃、埼玉県飯能市名栗川に家族と行楽に行った時、農家の庭先に五輪の塔があるのを見て、由緒を尋ねてみたが家の人は何も分からないという。これが契機となって、名も知られていない中世武蔵武士の群像を、調査してみようと思い立った。当時、わが国はすべて経済優先開発一辺倒で、大事な遺跡や文化財が惜しげもなく破壊されていく状況であった。鎌倉幕府開府(1192年)八〇〇年後の現在を、記録に残しておかねばと(文化財保護審議会委員でもあった)、やむにやまれぬ思いもあり忙しい現職ではあったが、休日になると埼玉県を中心に駆け廻った。  

   さまざまな出会い
 初めのうちは調査の手法も知らず、手持ちの資料もなく、ただ行き当たりばったりという、今思えば汗顔の至りであるが無知ゆえに、感動的な出会いや発見に大きな喜びと励ま
しを得て、長い間の調査や取材が続けられたのだと思う。いくつか例を挙げてみよう。

   「一番」の軒瓦
 冬枯れの元荒川の周辺は、今も静かなたたずまいである。田圃には稲株と藁束が残っていた。
 熊谷市の郊外、旧大里郡久下邑の久松寺東竹院を訪れたのは、昭和六十年(1985)の師走よく晴れた日の午後であった。閑散として人っ子一人いない境内にある、史跡久下直光・重光の墓「久下次郎重光公、建久七年七月三日卒去 当山開基」を見い出し、直光父子の墓を撮影した。庫裡に顔を出し直光父子の取材を申し込んだ。あいにく住職不在で奥様はよく分からないと言われ外に出た。折角来たのに残念とふと見上げた本堂の軒瓦、Pの紋章、鬼瓦の下には丸に「一番」のQ寺紋、何か曰くがありそうと再びひき返して声をかけた。
「どうして丸に一の紋章ですか?」
「何でも頼朝公が旗挙げをした時一番先に久下一族が馳せ参じたので、久下の紋所は丸に一番にするがよかろうと、頼朝公の思し召しで決まったと聞いております」
「それは言い伝えですか、それとも何か手掛かりになるものでも?」
「ここにA久下一族の会Bが出した冊子があります」
 「足利尊氏公と久下氏」という冊子を差し出されページをめくる。冒頭、石橋山合戦の項に久下一族が頼朝の陣営に馳せ参じたとある。早速久下一族事務局に冊子の送付をお願いした。すぐに冊子が届きこれが機縁となって、数年後、兵庫県氷上郡久下に取材に赴き子孫の方との出会いとなった。送られてきた冊子名はお寺のと同じ「足利尊氏公と久下氏」であった。                           

   薩摩守忠度の墓
 深谷市を訪ねた時のことである。清心寺の門の脇に「薩摩守忠度の墓」と表示されてある。こんな所になぜ?といぶかりながら境内に入ってみた。左手に五輪の塔と上部が欠けてはいるが、見事な板碑が立っていた。案内板によると、

 寿永3年、岡部六弥太忠澄は一の谷の戦いに忠度を討ち、いかに戦いの習いとはいえ、文武の名将をあやめたことを心から惜しみ、遺骸を明石の両馬河畔に葬った。戦い終えて凱旋した忠澄は、持ち帰った遺髪を、故郷岡部原の景勝の地(清心寺境内)に葬り、懇ろに朝夕香華を手向けた。
 忠澄が遺髪を葬って程ない頃、忠度に縁のある菊の前とよばれる上臈が、坂東に夫と頼みし忠度公の遺跡があると伝え聞き、香華なり手向けんと優しい心根から、東下りをして墓前に額ずき杖にしてきた一枝の桜を献じて懇ろに冥福を祈った。しかるに不思議やその桜は根つき、花芯に二枚の小葉をもった紅白の二花が相重なって、一茎により支えられる奇しくも契り深い夫婦の花が咲いた。これが世に珍重される忠度桜である。

 今は枯れて目にはできなかったが、私は、剛勇無双の坂東武者の優しい心に痛く心を揺り動かされた。

   忠度縁の地
 寿永二年(1184)二月七日、一の谷の戦いに敗れた薩摩守忠度は、海岸沿いに西へ落ちて行った。源氏の武将岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十四騎で追った。忠度に付き従っていた四人の武士は追手と戦ったが討たれ、忠度ただ一騎明石の両馬川まできたとき、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄に三太刀あびせたが薄手だったので、取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎等は主人の一大事と駆け付け、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と忠度は念仏を唱え討たれる。えびらに結び付けられた文を拡げると、
   行きくれて木の下陰を宿とせば
      花や今宵の主ならまし    忠度            
とあり、一の谷西手の大将軍忠度と知れた。敵も味方も、武芸、歌道に優れた人をと涙したという。清盛の末弟忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。
 『源平盛衰期』『平家物語』に語られた忠度の最期である。忠度が馬を並べて戦った川を、その後両馬川と呼ぶようになった。

 平成二年(1990)夏、源平合戦の地神戸市へ、生田の森や一の谷、ひよどり越えや安徳帝内裏跡など訪ね歩いた。山陽電鉄で須磨の浦、さらに西の明石市へ、人丸前駅に下り立った。線路沿いに少し西へ行くと、腕塚神社がある。小さな祠で忠度の腕を埋めた塚だという。神社の南150m辺りに、忠度塚がある。忠度の亡骸を埋めたところと伝える。閑静な住宅地の中に石の玉垣を巡らし、五輪塔と再建の碑が立っている。

   野辺氏本貫地発
 取材に当たり手掛かりにしたのは、名著『武蔵武士』(渡辺世裕・八代国治著)であった。秋川市立中学校在職中、中学社会科副読本「伸びゆく秋川」を編集することになった。私の分担は中世、市域の豪族小川・二宮・小宮・野辺の四氏のうち、前三氏については問題なく記述できたが、野辺氏については『武蔵武士』一覧表、都下秋川市野辺と記載されているが、それを証拠付けるものがなく空欄にしておいた。
 たまたま地頭取材で九州に赴き、佐賀県立図書館で『鎮西下向東国御家人』が目に留まり、野辺氏が日向国櫛間院庄の地頭職であることを知った。早速、宮崎県庁県史編纂室に「野辺氏関係史料」の送付をお願いした。程なく若山浩章氏から『宮崎県史』資料編の中から、野辺氏に関係の文書がコピーされ送られてきた。
 その中の「野辺文書」(野辺氏系図)に、一、武蔵國榛澤郡野邊郷内地頭職相続分の項、野邊成願ー阿念ー久盛以下……「あった!榛澤郡だ」『角川日本地名大辞典』で調べたところ、埼玉県岡部町であることが分かった。        
 平成四年三月二十三日、岡部町教育委員会を訪ねた。宮崎県庁資料室の「中世資料」を持参、「野辺文書」を示し、「武蔵七党の横山党野辺氏の本貫地が、榛澤郡になっているから当地に違いない」いぶかる職員に、平安鎌倉期豪族は地名を姓にする。野辺という地名はないかと尋ねてみた。丸山教育長なら知っているかもしれないと、出先に電話で聞いてくれた結果、古い地図でみた覚えがある。資料を預かるようにとのことで私はそれに応じた。
 同年四月五日、「中世資料」が返送されてきた。
前略
過日は岡部町にお越しいただきましたが、町では担当も留守とのことで大変申し訳あ りませんでした。当日、旧野辺村のご案内もできず、地形等により何か参考になればと 思い残念でなりません。野辺氏について存じませんでしたが、今後町史等の参考にさせ ていただきたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。
  まずは取り急ぎ資料をお送りさせていただきます。ありがとうございました。
                             曽田 幸政
 その後、岡部町の古地図に東野辺・西野辺の地名が確認されたと知らされた。

   重衡の首塚
 児玉党の取材で、児玉町蛭川を訪ねた時、駒形神社東側の墓地に「重衡の首塚」があるのを知り、驚きの眼をみはった。
 源平の戦いで勇将として名高い、本三位中将平重衡は、寿永三年(1184)一の谷の合戦に平家の主力を失い、生田の森を死守していたが源氏の大軍に攻め立てられ、須磨の浦まで逃げのびた時、児玉党の総大将庄太郎家長主従に生け捕りにされ鎌倉に送られた。 頼朝は、奈良の僧兵の強い要求を受け入れ、児玉庄四郎蛭川刑部高家に命じて、木津川で首を斬らせ、奈良坂にその首を曝した。高家は心がおさまらず重衡の首をもらい受け、蛭川に持ち帰り氏神様の東側に、手厚く葬り供養したと伝えられている。初めに見た首塚は小さな石祠であったが、昭和六十年(1992)地元有志により、八百年忌供養として五輪の供養塔が傍に建立された。                

   重衡縁の地
 平成三年(1990)夏、一の谷古戦場や重衡縁の地を訪ねた。神戸から山陽電鉄で須磨寺駅へ、下車すると駅前に「平重衡とらわれの遺跡」の碑があり、線香や花が手向けられ源平合戦の昔がしのばれる。
 さらに翌年夏、京都府木津川の処刑跡地にも取材に行った。JR奈良線木津駅下車北へ徒歩十分安福寺の山門をくぐった。

 ◇安福寺(哀 堂)
「安福寺由緒及沿革」 
安福寺哀堂(京都府木津町)

 一、哀堂 土 人「アハン堂」という。本尊阿弥陀仏。開基 長保三年(1001)恵信僧都。本尊は平重衡卿生害の時引導仏なり。堂を哀堂というは、この所において重衡卿誅せらるる故に、これをなづくるなり。
 三位中将生害を得らるること平家物語及源平盛衰記に載たり。その略に曰く(盛衰記)三位中将重衡卿をば、土肥次郎預かり具してこの所まで来る由を告ぐ。南都の返答に曰云く、般若野の南には入れずして相計はるべし。首をば衆徒の中へ賜へ。一見を加ふべしと云云。かくてその日も暮れければ、木津川の南の在家の中に、大道より東南に向かって一面に作りたる旧き堂あり。これえぞ入り奉りける。暁の野寺の鐘の声五更の空に響きける折しもホトトギスの鳴きて西をさしていけるを聞き玉ひて「思ふこと語りあはせん時鳥喜ばしくも西へいくかな」と口ずさみ玉ひける。その後木津川の畔下居奉りて布革の上に居奉る。重衡今を限りと思召ければ侍を召して、この辺に仏はおわしなんやと宣ければ、侍泣々その辺の在家を走り巡り求けれども、世間に恐れて出さざりければ、小堂より阿弥陀仏を尋出して河原の砂に東に向けて、三位中将の前に居ゆる。中将合掌して念仏百辺許り高声に唱へ玉ひければ、頸は前にぞ落にける。
 二、重衡塔 十三重石塔。重要美術品。
 ご住職の話によれば、近くに首洗い井戸があったが、昭和二十二年池を埋め立てて町営住宅を建ててしまった。今の池は同二十五年別の場所に作らせたもので、伝説の「ならずの柿」もその時植えた柿の木であるという。

 ◇奈良坂
 首を晒したと伝えられる奈良坂は、安福寺の南、国道24号線の上り詰めたところ、南方眼下に東大寺の巨刹が眺望できる場所である。


(続きは本書で)

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