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 ※「代表のぼやき」を拝読していただきありがとうございます。
 当ページは6月27日よりこちらのブログにて公開する事になりました。
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武州安息旅の会を設立しました!! 2005.6.6 up
古民家-赤城型民家の魅力
老人は働きたい 
打木村治の「世界」 
飽きない面々 
中国の今後



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2005年6月6日(月)-②

武州安息旅の会を設立しました!!

 このほど、表記の旅行の会を設立しました。正式名称は、さいたまグリーン・エコツーリズム協議会。埼玉県の沿線別(当面は、東武伊勢崎線、高崎線、東上線、そしてその延長として秩父に、さらに将来的には西武線も)にグリーンツーリング、エコツーリングを実施していこうと言うものです。

 地域に必要な事業、つまりコミュニティビジネスを確立していこう、食っていける市民団体に、行政から事業委託を受けられる市民団体を志向しています。仲間(発起人)には、今のところ、次のような方がおります。

 NPO法人エコ・コミュニケーションセンター代表理事の森良さん、東松山市の加藤敏彦さん、NPO法人すぎとSOHOクラブ代表の小川清一さん、NPO法人えがおつなげて常務理事本部コーディネーターの藤木照治さん、上尾ビレッジ代表の若島敏夫さん、NPO法人彩コミュニティCSOネットワーク代表の中村博行さん、持続可能な開発のための教育の10年さいたま代表の長岡素彦さん、NPO法人東上まちづくりフォーラム代表理事の柴田郁夫さんと小生です。協議会公式サイトは、http://green.mond.jp/get/です。
 事務局は中村さんにしていただいております。

 中村さんたちとのおつきあいは、小生のささやかな記憶によれば、NPO法人荒川流域ネットワークの飯能シンポジウム(2002年)であったかと思います。この時は、若い人がシンポに来たと瞬間的に思いましたが、ゆっくり話ができず、挨拶で終わりました。


 さらに、翌年の2003年に、川越市で開催された「第3回環境まちづくりシンポinさいたま」に、森さんに呼ばれてそのパネラーとして、エコツーリング分科会に参加したのでした。その席上、大いに盛り上がり、特に覚えているのが「これなら明日からエコツーリングができる、コミュニティビジネスができる」と言う発言でした。このような発言は荒川ネットでいやになるほど経験し、懲りてきましたから、黙って聞いていましたが、思っていたとおり、やはり実現しませんでした。

 しかし、今回動いてくれた中村さん、長岡さんの二人は、静かに志向していたらしく、今年2月に開催した「第4回環境まちづくりシンポinさいたま」(東松山会場)及びその反省会懇親会を通じて、立ち上げたのでした。

 会には小さいながらもエコツーリングの専門旅行業者も関係し、経済産業省関東経済産業局のコミュニティビジネス分科会ともつながっており、じっくりと取りかかろうと考えています。 


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2005年6月6日(月)-①

古民家-赤城型民家の魅力


 日本の農村集落は素晴らしかった
 先に記したように「ぐんま昆虫の森」(群馬県新里村)を訪ねたのは2005年(平成18)2月22日(火)のことであった。それからしばらく経ったのだが、赤城型民家の魅力にとらわれているのが不思議であった。写真参照
 この赤城型民家は、母屋の屋根の前面の中央を逆凹型に切り落とした形式の屋根を持つ民家である。
 なぜ特徴ある家が成立したかを、群馬県昆虫の森建設室が作成した「赤城型民家資料」によると、概要次のとおりである。

 1928年『勢多郡誌』編纂のために勢多郡下の民家調査が行われ、その調査の中心となったのが当時早稲田大学建築学科の学生であった浜口幹三郎で、その指導教授は今和次郎であった。浜口は勢多郡17町村全域にわたって民家調査を行った。浜口は同書の中で、赤城型民家の成立を養蚕との関連でとらえ、平屋で屋根裏を養蚕に利用する場合には、採光と通風のために、大きな間口を要すること、そのために屋根のひさしの一部を切り落とし、その上、一階の切り込み部分の下に下軒を作って雨よけとするとし、これを赤城型の屋根であると規定した。

 そして、さらに次のようにも記している。「ここまで発達するにはいくつかの段階があった。屋根の正面の小さな煙出し部分から出発して、屋根の正面の中央を切り落とすところまで発展していったものと思われる」と。

 つまり多くの実績、時代を経て完成していったものと思われる。

 驚くことは、この赤城型の兄弟タイプがあることである。甲州型、榛名型とある。2階前面を切り上げにしたのが甲州型、屋根の正面を切り落としてひさしを出して突き上げにしたのが榛名型、さらに総2階にしたりと養蚕の盛んな地域だけにさまざまなタイプができたのであろう。今ならまだ間に合いそうなので、ぜひ写真に撮りたい。

 このぐんま昆虫の森の民家は、明治初期に建設されたものとのことで、延べ床面積は105.15坪。

 こんな赤城型の集落があちこちにあったと言うことは、小生のように昭和30~40年代に自転車であちこちに廻って、日本の農家は貧しいなと実感したものにとっては、驚異である。江戸末期、明治時代に外国の人が日本の農家を訪れ、その威風と格式を記していたが、確かに大内宿(福島県)、白川郷(岐阜県)を見ただけでも、かつての農家集落のすごさが実感できる。
 日本の住宅、都市の景観はめちゃくちゃだと言われてきたが、むしろ逆であったと言えるのではないか。

 そういえば、新潟県鹿瀬町、さらに福島県の会津地方の村々を廻ると有名な地ではないのだが、素晴らしい景観の集落に遭遇する。
 明治時代、大正、昭和初期、そして高度成長時代は、「農村から都市へ」の時代であり、江戸幕府の政策を否定する時代であったとも言える。
 民家から時代思想を描けるのかも知れない。


①ぐんま昆虫の森 赤城型民家
②囲炉裏と煙
③ほぼ完成した昆虫観察館
④群馬県沼田市にて 榛名型住宅
⑤片品村民家(榛名型)正面から
⑥新潟県鹿瀬町
⑦福島県大内宿
 


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2005年2月24日(木)

老人は働きたい

 特定非営利活動法人まちづくり楽会は2005年2月22日(火)、古民家市民農園エコツーリングに行きました。訪問先は、群馬県新里村にある「ぐんま昆虫の森」と旧石器を発見した「相澤忠洋記念館」。参加者は3名と寂しいものでしたが、少なければ少ないで話が親しくなるので、これはこれで良いのです。市民活動が長いとこんなことも覚えます。 ぐんま昆虫の森では、担当の岩崎桂治さん(群馬県教育委員会生涯学習課昆虫の森建設室係長)が出迎えくれて、早速駐車場の傍らにそびえている古民家について説明していただきました。

 この古民家、桁行10間4尺5寸、梁間6間、延べ床面積105.15坪。何よりも現代住宅なら3階は有にある高さが魅力。母屋の屋根前面に逆凹に切り落とした屋根を持つのが特徴の民家で、赤城型民家と称されているとのこと。
 入ると、高齢の方3名が迎えてくれて、お茶や美味しいおこうこを出してくれる。囲炉裏は未だ火の付きがいまいちで、煙が盛んに出て目がいたい。しかし懐かしい痛さでもある。

 聞けば新里村長寿会の人たちで、この地区の皆様とのこと。交替で出てくるとの由。現在56名中30名ぐらいが毎回3~4名で参加しており、月に22~3日出てきているとのこと。


 ぐんま昆虫の森は、全面オープンになっておらず、参加申し込みをしないと見学できないのが現状であるが、月に1回一般公開日を設け、その日はどなたも入園可能となっている。さらに里山文化塾などのイベント(登録制)も設けている。

 ともかく広さは48haと広く、廻るだけでもすぐ2~3時間かかってしまう。昆虫観察館はほぼできあがっており、この8月に全面オープンするとのこと。


 さて先ほどの古民家であるが、「ここでうどんやだんごでもでればよいのに」と教育委員会が担当であるので難しいには承知で話すと、長寿会の人たちは「それは良いね」と話す。火燃しと掃除、片づけだけでは面白くないとのこと。元村会議員のかたは、「もう少し入るもんが入るとやりがいがあるのに」とも言われる。

 お茶やこうこのお礼に、先にまちづくり楽会で出版した「古民家活用事例報告集」を進呈する。

 もちろん担当の岩崎さんにも真っ先に進呈している。岩崎さんも古民家の活用に興味をだき、白川郷、山形県鶴岡の古民家、甲州型民家などなど、大型の写真を見せてくれるほど。

 条例や規則があり、そう簡単にいくとは思えないが、また行ってみたい「ぐんま昆虫の森」であった。


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2005年2月19日(土)

打木村治の「世界」


 打木村治(1904~1990)は、所沢に住み、その後飯能市に転居した。小社の『ぼくの軍国少年期』の著者、赤田喜美男氏は、『打木村治作品集』を発刊した1987年(昭和62)に埼玉新聞に、作品集が出たのを期に、「打木村治と飯能」という一文を記している。
 たんなる紹介記事ではなく、打木村治文学をまとめているので、さすが飯能の文化のまとめ役であった赤田さんと言える。副題は「弧りの道を歩き続けて」と言うのだから、文章の味が了解されるであろう。
 ちょっと初めを紹介する。

 天覧山の麓の草原の真中にたたずんで、打木先生は、よく西の山なみを見ておられた。日が沈んだあと、とり残されたような雲が金色に輝いている空にみとれて、すすきと一緒に動かない白髪の姿は、そのまま画になると思った。「先生!!」とうしろから声をかけると、はっと現実の戻った面差しで「やあ君か、今日は野武士も一緒か」と笑われ、「どうだ。いいだろう、この空は。そのうちもっとよくなるぞ」とご自分に言いきかせるように言われた。“野武士”とはいたずら盛りで、この辺りを毎日走りまわる私の一人息子に、先生がつけてくださった愛称で、子どもの方では、この大人を「原っぱの先生」と呼んでいた。 …後略…

 その打木村治は、1973年(昭和48)によく知られているように児童文学『天の園』全6巻で芸術選奨文部大臣賞を受賞している。

 このとき、著者は既に飯能に住んでいる。いつ転居したかを見ると、赤田氏の前述の記事によると、「20年も前のこと」と赤田さんは記している。そうすると、1967年(昭和42)前後となる。『天の園』はもちろんずーと以前から短篇として構想されていたが、一貫性のある構想は飯能に移ってからと考えても間違いはないであろう。


 打木村治の一人息子、打木城太郎氏の書『死んだ男と』によると、村治が所沢で文学好きな女(20歳)と知りあったのは、1950年(昭和25)としている。それから20年、妻と息子と疎遠であったと言う。村治40歳の頃であった。

 飯能市と村治とのつながりは長い。月刊誌「飯能文化」が創刊されたのは、昭和22年8月1日である。のち「武藏文化」に改題されているが、その翌年の新年特大号に「牛と娘」と言う小説と、創作選後評を掲載している。創作選後評は毎回のように掲載している。村治は結構しばしば飯能に訪ねていたようである。短歌部門は友人の石川信雄が担当している。

 この新年特大号の創作選後評では、〈「世界」の確立〉として、次のように記している。

 小説は「世界」を持っていなければならない。その小説を通じて何かを知るというよりは、その小説にこびりついた「世界」があって、その中に読者が自由に入ってゆけ、悲しきは悲しく、歓ばしきは歓ばしく、おそろしきはおそろしく、おかしきはおかしく、ともかく心おきなく呼吸できる、そんなふところがなくてはならない。『小説のふところ』(これは私の言葉だが)このふところの世界を私は大切に思っている。これは情熱ばかりではできることでなし、技術ばかりでも、努力ばかりでも、はちきれるような文学魂ばかりでもできることではない。何かが必要である。その何かを求める苦労が一生の小説勉強なのである。たいへん奥の手から物をいっているようだが、ここに立たないとほんとのことがいえないのである。 …後略…

 飯能には「高麗峠」と言う同人誌があり、現在66号である。編集人町田多加次氏。ここにも打木村治は関係してくる。飯能と打木村治は深い関係にあると言える。


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2004年2月18日(月)

飽きない面々

 小生の父は、大正3年(1914)生まれで誕生日が来ると91歳になる。足が悪くほとんど外出せず、目も場合によっては全然見えない、もちろん耳はかなり聞こえず、介護保険のレベルで今年から介護4級になった。
 その父が、「ホントに子どもと同じだいな」と嘆く。「迷惑かける」ともいう。
 「人間良い加減でいいんだよ」とつくづく思う。生は無から有であり、死はその逆である。無へ戻るだけである。地球上のすべての生命体は、無と有の繰り返しであり、無と有の違いに何があるのかと問われると良く分からない。

 小生、ずーと失敗の連続であった。満州進出(満州青少年義勇軍)と敗戦後の帰国活動を描いた『永遠にさよならハルピン』(石川道彦著)は、3000部刷って、500部も売れなかった。出版を始めて6冊目の本であった。
 当時、満州(現・中国東北部)孤児が紹介され、親、兄弟、親戚との再開がテレビ、新聞に取り上げられていただけに、かなり出ると思っていたが、完璧な失敗であった。収入は自分で稼がねばならない自営業であるため、まったくの失敗は完全な低収入を意味する。アパートのガス代を払えず、長男の小学校入学を機に、東松山の親と同居することにした。親と同居できたのだから幸せである。

 その後、4月より東松山の書店(比企文化社)にアルバイトで雇っていただき、1年間働いてその傷を癒したものであった。
 さて、アルバイトが見つかる前、その著者と残念会を開いた。庄和町の著者の自宅で。二人は正月近くだったか、こたつに入り、あれこれと話をした。最後に著者は詩吟を謡ってくれて、小生を慰めてくれた。

 大きな地主の息子でありながら、左翼運動に走り、転向し、満州に糧を求めて移住した。その石川さんの激戦を経てきた人生の詩吟は、一生忘れられない映像として残っている。
 どんな人にもそんな映像はあるでしょう。
 当時住んでいた志木市、最後の奥付本である。1982年7月5日。1980年6月に出版開始。


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2005年2月12日(土)

 中国の今後

 中国のお陰で日本の経済は、1970年代から80年代の欧米のように、鉄鋼、電気、造船、化学、自動車産業などの倒産、撤収から来る不況、失業に見舞われなくてすんでいる。
 しかし、その中国の今後は知っておく必要はあるであろう。

 今後、予測される一つとして、労働組合の活発化、つまりストライキ、労働待遇の改善化要求が予測される。既に大都市のあちこちで、見られるとの報告もある。
 日本が経験したことは、大衆車が生まれると、その社会は中産階級が多くなり、社会構造そのものが、貧しさから脱却し、生活の豊かさが求められるようになり、その流れは止まらないと言うことである。

 現在は、ごく少数の金持ちと、1割程度の中産下級層、9割近くの貧窮農民層である。中産階級の進出なんて、まだまだと思う人も多いであろう。また、人口が巨大であり、その動きは緩やかな動きであろうが、日本の昭和40年代~50年代を思い起こせば理解されるように、車が動き(環境問題は大きくなるが)、自動車販売店ができ、自動車修理工場、ガソリンスタンド、自動車保険・事故に対する保険屋が看板を出すと、その町並みは変化してくる。つまり、何もない、工場もないところに産業が生まれるのである。
 そして生活の向上が強く希求される。

 共産主義国家であるのだから、今までも組合運動は活発化していたと言う方は少ないであろう。労働者の権利、労働組合の活動の自由はこれからである。重慶(ちょんちん)の日中サッカー戦の日本へのブーイングは、日本に対してだけではなく、中国政府に対するものであるとの意見もある。

 1989年(平成元年)4月17日、北京において自由を求める学生たちによる天安門事件がおき、それに理解を示した最高指導者の趙紫陽総書記は解任され、その後を江沢民氏が次いでいる。

 趙紫陽氏は長い幽閉生活を終え、つい先日亡くなった。
 今再び、我々は杜甫や李白、魯迅などの文学者の誕生を待望しているのである。


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